参加は16名でした。
グループ討論のようす。
もりあがってましたね。25条の議論は熱いですね。
テーマは、「健康で文化的な生活って???」
ということで、講師は私が担当しました。
以下、概要です。
一。憲法25条の先駆的内容
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む
権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保
障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
◇「すべて国民は」という主語。生存権保障。
人権宣言ともいうべき意義。
◇第2項は、生存権保障のために、国家は何をしなければ
ならないかの明記。
*努力義務と、生存権保障のための手段と領域
→1項は国民の権利、2項は国家の義務をはっきりと
書いている。
→根本にあるのは、「個人の尊重」
◇日本国憲法以前の日本社会は
*「人間らしく生きること」が、人権として確立されることは
なかった
*恤救(じゅっきゅう)規則(1871年制定)
・ひじょうに厳しい制限扶助主義(対象のしぼり込み)
・①障害者、②70歳以上、③重病人、④13歳以下の
4類型を対象としているが、本人以外の家族(障害を
もつ高齢者や児童でなければ)がいる場合は救済の
対象にならない。
・ちなみに、当時(明治初期)の日本人の平均寿命は
ちょうど40歳
・たんに「極貧状態にある」だけでは不十分で、「扶養し
てくれる身寄りの者が1人もいない」「障害や老衰、
病気で就労できない身体状況」が条件。
・しかも、保障される生活水準がきわめて低かった(劣等処遇)
・こういう無慈悲な制度が、明治期・大正期を通じて
わが国唯一の社会保障制度として君臨していた。
日本という近代国家に「国民を保護する」という意
識が甚だしく欠落していたことをものがたる。
→平和であることと人権保障は結びついている
二。朝日訴訟に学ぶ-権利はたたかうものの手の中に
◇社会保障闘争のあけぼの
◇1957年に「朝日訴訟」開始(資料参照)
◇1958年には、労働組合(総評など)を中心に、
「中央社会保障推進協議会(中央社保協)」が結成される。
◇以下は、『人間裁判-朝日茂の手記』(大月書店、2004年)より
「私は、(これだ! これをやらなければならない。泣き
ねいりしていては、いつまでたっても救われない)と心
の中で叫んだ。いままで、どんなに多くの人びとが法律
のことを知らないために、低い生活保護基準に苦しめら
れ、そのまま泣きねいりしたことであろう。私たちの療友
も、古い田舎の慣習にとらわれたり、家の面子(めんつ)
にこだわったり、虚栄のため、受けられる保護も受けず、
また、受けたとしても、ただ、お上からのお恵みとして受
け取り、民主憲法で保障された当然の権利として考えて
いた人は少なかったのではなかろうか」
「私の怒りは、決して私1人だけの怒りではない。多くの
貧しい人びと、低い賃 で酷使されている労働者の人び
と、失業した人びと、貧しい農漁村の人びと、この人びと
はみんな私と同じように怒っているはずだ。600円が1000
円に引き上げられずとも、あるいは、なんとか個人的に解
決する方法がないとはいえないが、こんなことをしていて
はいつまでたっても、貧しい人びと、弱い人びとは浮かば
れない。生活と権利を守ることは、口先だけでいくらいって
も守れるものではないのだ。闘うよりほかに、私たちの生
きる道はないのだ」
「憲法を暮らしに生かす運動は、憲法の諸条項・人権と
それに違反する現実とのギャップがあからさまになると
き、そのズレのなかから国民的高揚を迎える…。朝日
訴訟の場合には、一方での憲法で保障された文化的
最低限の生活保障原則と、他方での非人間的な劣悪
きわまる生活保護基準の現実、この両者間のあまりの
落差・矛盾・ズレが憲法を暮らしに生かす運動に火をつ
けたのである。21世紀の社会保障運動はこの運動視
点に学び、一方での高まる権利水準、他方での劣悪・
貧困な無権利的生活の現実、この両者のギャップに着
眼した権利保障運動に取り組んでいかなければならない。
朝日訴訟が示した社会保障運動の力の源泉は、この
点にあると考えられる」
(二宮厚美「朝日訴訟が現代に問うもの」)
◇1審判決(1960年10月、浅沼判決)
*25条の具体的権利性を明確に述べた
*「最低限度の水準は決して予算の有無によって決定さ
れるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである」
◇朝日訴訟の運動形態も、学ぶべき宝がたくさんある
*個人的たたかいから、組織的たたかいへ
「どうして個人の力のみで闘えようか。組織の支援なし
には、とうてい勝つことはできなかったであろう」
(朝日茂手記)
*労働者階級も、「自分たちのたたかい」として全面支援
・最低賃金などとも連動している
*朝日茂さんの人権意識ー自分の人権、みんなの人権
三。変質させられる日本の社会保障
1。自助・共助、最後の最後に公助
◇「一体改悪」法の大きな柱である社会保障制度改革推進法が
民自公によって制定
*推進法は“社会保障は自己責任”という「自民党型政治」の
哲学が貫かれ、国の社会保障への公的責任を大後退させる
方向を打ち出した。消費税大増税と抱き合わせで医療、介
護、年金、子育て、生活保護などの改悪を明記した「社会保
障解体宣言」とも言うべき内容。
◇社会保障はムダという思想
*新自由主義の人間観(できない人間は貧困でもかまわない)は
①福祉政策は、「怠け者」を多数生み出し、1970年代から
発達した資本主義国を悩ます財政赤字を生み、経済を停
滞させ、社会の道徳を低下させた。
②福祉予算を削減すれば、「怠け者」たちは仕事を探し、自
立するようになるし、財政赤字の削減にも役立つだろう。
社会保障は、それでも働けない高齢者や障害者などに対
する最小限の福祉的なものにする。
*日本維新の会の橋下徹代表代行の「社会保障制度が日本
をつぶす」と発言
*自民党の選挙公約は生活保護の10%引き下げをかかげる
2。「消費税は社会保障のため」は、ずっとウソだった
◇1989年に消費税が導入されてから社会保障はよくなったか??
◇事実上、法人税の減税の穴埋めに使われてしまった
3。社会保障制度を支えるのは「人間らしいまともな雇用」
◇非正規労働者、失業者を多数生み出しているのが日本の現状
*「働かなければ生きていけない」のが労働者
*日本の失業者は、失業保障が極度に不十分なために、少々
劣悪な条件でも再雇用されないと生きていけない。自助・共助。
*一定の収入を得ることができれば、年金も保険料も払える。
税金だって払える。
◇劣悪な雇用が増えれば、生活保護受給者へのバッシングへと
向かう力が強まる
◇「健康で文化的な最低限の生活」とは???
-最低生計費調査から
◇社会保障は、労働者階級のためのもの
ーたたかいによって勝ちとる
4。強者に憲法は必要ないが、弱者の立場になる可能性を想像する
「多数派の側にいる人間が憲法を理解するためには、常に
弱者に対するイマジネーションを働かせる必要があります。
…(略)多数派はいつまでも多数派でいられるわけではあ
りません。強者と弱者は常に立場が入れ替わる可能性が
あります。…そういう可能性に対するイマジネーションを持っ
ていないと、憲法はいつまでたっても他人事で終わってしま
います」
(伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』トランスビュー)
さいごに:1人称の幸福には限界がある
喜びやうれしさの感情を共感することができるのは、人間だけ
以上。
参加者の感想文☆
◆健康で文化的な生活は、ボーっとしていると
どんどん権力者の都合のいいように変えられち
ゃいますね。しんどい人たちの苦しみや喜びを
共感しあえるやさしい社会がいいなー。
◆社会保障を切り捨てることは、国民の首を
しめること。国民は憲法25条を守らせないと
いけないし、25条をないがしろにする人たちに
政治をさせてはいけない。憲法を守るかどうか、
その立場が政党を選ぶ選挙の争点にならない
かなあと思います。
◆自分のまわりにも生保バッシングする人が
います。今日学んだことを話してみたいと思い
ました。
◆最賃がひくすぎることが、一番の問題だと
思う。労働組合がもっとがんばらなくては!
まともな賃金を。働けなくなったら国や企業が
保障するのはあたり前。朝日茂さんから学び、
岡山から憲法25条のかがやく日本を!
◆生活保護バッシングや自己責任がまん延
しているなかで、私たちは「社会保障」や「権利」
について「当然」ではなく「ぜいたくなもの」「恵ま
れたもの」のようなイメージをもたされています。
25条を学ぶ機会がないと、なかなか権利なん
だとわからない。本当にマスコミのイメージ操作
はおそろしいですね。
◆憲法25条が日本人の生活の中に根づいて
活用されていたら、現在のような貧富の差が
あったり、生きにくい世の中になっていなかった
のではないかと思ってしまうのは、私だけで
しょうか。
◆勉強し、広める。憲法25条の考えは素晴ら
しい。それが政治に生かされていない。私たちの
責任も大きいが、こういった学習会で若い人が
知っていくことが大切だと思いました。
コメント
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