「労働者にとっての健康問題―『資本論』の立場から」。
こんな講義、いちど、してみたい。
生きていくためには、カネがいる。
生産手段をもたない労働者は、
唯一の生活手段である自分の労働力を
商品として売り続けなければならない。
この商品は、私たちの生命活動と一体化している。
肉体と精神そのものである。切り離せない。
だから、資本主義に生きる私たち労働者階級にとって、
「健康の意味」は決定的に重くなっている。
健康は自己責任などではない。
健康を守るためには、たたかわなければならない。
以下は、マルクス『資本論』から。
「私の日々の労働力の使用はあなたのものである。
しかし、私の労働力の日々の販売価格を媒介にして、
私は日々この労働力を再生産し、それゆえ新たに
売ることができなければならない。年齢などによる
自然的な消耗を別にすれば、私は、あすもきょうと
同じ正常な状態にある力と健康とはつらつさで労働
できなければならない。…私は毎日、労働力の正常
な持続と健全な発達とに合致する限りでのみ労働力
を流動させ、運動に、すなわち労働に転化しよう」
(『資本論』新日本新書版397ページ)
「資本は、剰余労働を求めるその無制限な盲目的
衝動、その人狼的渇望のなかで、労働日の精神的
な最大限度のみではなく、その純粋に肉体的な最
大限度をも突破していく。資本は、身体の成長、発
達、および健康維持のための時間を強奪する。それ
は、外気と日光にあたるために必要な時間を略奪す
る。それは食事時間をけずり取り、できれば食事時
間を生産過程そのものに合体させようとし、その結果、
ボイラーに石炭が、機械設備に油脂があてがわれる
のと同じように、食物が単なる生産手段としての労働
者にあてがわれる。それは、生命力の蓄積、更新、
活気回復のための熟睡を、まったく消耗し切った有
機体の蘇生のためになくてはならない程度の無感覚
状態の時間に切りつめる。この場合、労働力の正常
な維持が労働日の限度を規定するのではなく、逆に
労働力の最大可能な日々の支出が―たとえそれがい
かに病的で強制的で苦痛であろうと―労働者の休息
時間の限度を規定する。資本は労働力の寿命を問題
にしない。それが関心をもつのは、ただ一つ、一労働
日中に流動化させられうる労働力の最大限のみである」
(同上455ページ)
「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労
働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」
(同上464ページ)
ちなみに、マルクスと同じ時代を生きた
ナイチンゲールも、労働者の健康問題について、
さまざまなところで語っていますが、
例えばこんな告発をしています。
「仕事場についていえば、労働者は健康が唯一の
資本であることを忘れてはならない」
(「病院の看護と健康を守る看護」)
「このような場所で、しかも無理な姿勢、運動不足、
短い食事時間と栄養不足、長時間にわたる過酷な
労働、不潔な空気といった状況下にあって、彼らの
大多数が胸部疾患、それもたいていは肺結核で若
死するという事実は、これはいったい不思議といえ
るであろうか? それに加えて、これらの作業場には
暴飲という悪い習慣が共通して見られる。人びとは
酒の力を借りなければ仕事をやりおおせず、それが
彼らの健康のレベルを下げ、身持ちを崩させ、刻々と、
早過ぎる墓場行きへと駆り立てる。雇用者がこれらを
考慮することは稀である。労働者たちととり交わした
雇用契約書には、健康的な作業室などという条項は
どこにもない。雇用者は賃金を支払うことが雇用契約
上の自分たち側の責務のすべてであると考えている。
そしてこの賃金と引き換えに、男女の労働者たちは
労働と健康と、そして生命を提供しなければならない
のである」 (『看護覚え書』第1章「喚起と保温」)
「彼らをその家庭まで追跡していってみよう。そこに
何を見るであろうか。ぎりぎりで暮らしている世帯、
一家の主人ないし生計を支える者の長い病気のため
に極度の重荷を負わされている家庭、もう死ぬと思わ
れていた主人を受け入れて、(支えになるどころか)
彼のためにさらに加えて、世話する人手や必要な衣
類、そして何より病人用の栄養食品や療養上の用度
品など、こうしたものを確保するために、底のついた
“やりくり”にますます迫られる家庭なのである。汚れ
きった空気のなかで、しかも必要な物はほとんど手に
入らないままに進んでいく、こうした不完全な回復期
が、最終的には死亡登録簿の頁を増やしていくことは
疑いない」 (『看護覚え書』補章「回復期」)
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