9時前に、岡山駅西口を出発した高速バスが、
広島のバスセンター(平和公園のすぐ近く)に到着したのは、11時20分頃。
そこからすぐさま市電にのって、南へ。
なんのヘンテツもない、橋にやってきました。
この日の最初の目的地です。
御幸橋(みゆきばし)という、京橋川にかかる橋です。
ここは、広島原爆の当日、唯一写真が撮られた場所。説明版がありました。
松重美人さんという、中国新聞のカメラマンが、被爆直後(約4時間後)の
人々を撮ったのです。その悲惨な光景を写真にとることに松重さんは
葛藤と躊躇(ちゅうちょ)があり、ファインダーが涙で見えなかったといいます。
松重さんは、その後、街の中心部へと向いますが、
あまりにも悲惨な光景で、中心部ではシャッターが押せなかったそうです。
被爆当日に、撮られた写真というのは、この御幸橋付近で松重さんが
撮った写真3枚のみと言われています。長崎では当日撮られた写真はありません。
この日、御幸橋に実際に立ってみて、爆心地付近を眺めてみました。
いまは高い建物がたくさんありますが、その当時は、せいぜい三階建て。
上空580メートルで炸裂したということですから、爆心地から約2.3キロのここは、
外を歩いていた人には、熱線が直撃だったろうなということが想像できました。
続いて訪れたのは、御幸橋から歩いて10分ほどの、
広島赤十字原爆病院。ここも、1度訪れてみたいと思っていた場所です。
爆心地からは約1.5キロです。
ここには、原爆遺構が残っています。旧広島日赤の本館の建物は、
被爆の実相を伝える貴重な建物(鉄筋なので残っていた)だということで、
保存運動があったのですが、結局取り壊されてしまい、
今はこの壁の一部が置かれているだけです。
窓のフレームが、すごいへし折られようでした。
衝撃波と爆風の強さが想像できます。
こちらは、飛び散ったガラス片によって傷つけられた壁です。
爆風によって、ガラス片や木片が凶器となり、人々を襲いました。
壁でさえ、この傷つきようですから、人間は・・・と考えると、背筋が凍ります。
壁の南側の敷地に、ちょっとした慰霊の場がありました。
病院で亡くなった方々の慰霊碑など。
掲示板に原爆の絵もありました。日赤病院の前の花壇に
並べられた中学生の遺体の絵でした。
碑文には、人の救護を使命とするこの病院にも、
原爆が襲いかかったという主旨のことが書かれていました。
原爆は、殺す人、破壊する場所を選びません。
病院であっても例外ではありません。
あらゆるものを破壊しつくし、殺しつくす、無差別大量虐殺兵器です。
その後、ふたたび市電に乗って、平和公園へ。
公園内をウロウロと。やはり海外の人も多いですね。
平和公園を出てちょっと西へ歩き、お昼につけ麺を食べて、
14時前に、広島労学協の事務所へ。
平和公園のすぐ近くにあります。
ここで、お仕事の打ち合わせだったのですが、
その前に!
『学習の友』にいつもステキなイラストを描いてくれている、
岡田しおりさんと会う約束に☆
広島労学協の専従の平野さんと、3人でのお茶会(?)でした。
というのも、『友』の私の連載などに、いつもすばらしいイラストを
描いてもらっていて、1度直接お会いしてお礼をしたいと思って
いたので、この機会に、ということで、セッティングしてもらいました。
『友』をもった岡田さん。2時間ほどの楽しい時間でした。
岡田さんもお酒が好きだということで、今度はぜひ飲み会を、
ということで盛りあがりました。
いつものお礼と言う意味で、本をプレゼントさせていただきました。
その後、16時から平野さんと2人で『友』の企画内容についてあれこれと
議論、アイディア出しをしました。ふむ、まずまずな感じになるかなぁ。
で、17時半から、近くの居酒屋に場所を移動しまして、
平野さんとあれやこれやと、楽しく話をしました。
そして、さらに2次会へ。
近くのステキな雰囲気のバーに連れていってもらって、
面白く、心地よい時間となりました。
平野さん、ありがとうございました。お互い、学習運動がんばりましょう☆
・・・で、ここまでは本当に充実した1日だったのですが、
きのう書いたとおり、新幹線での大失敗となったわけです。あはは。
ま、そういうことも、人生にはありますな。
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