今日の朝日新聞に、内部留保のことについて論じられた
記事があった。
「雇用のために内部留保を使えというが、そんなに簡単な話じゃないよ」と。
もちろん、私も、学習会などでは、「巨額の内部留保がある」と
いっているが、すべて使えるお金だとか、そんな単純な理解は
していないつもりである。しかし、だ。
このての記事の議論を読んでも、
「○○企業が○○○○人の削減案を発表」という報道を
みても、どうしても違和感を感じざるをえない。
「雇用」とひと言でいうけれども、
そこに、1人ひとりの人生や生活がある。家族もいる。
夢や希望ももちたい、同じ人間である。
それは、結局、切られる人間にたいする
「乾いた3人称の視点」なのだと思う。
書いたり報道したりしている人たちにとって、
切られる人びとは「他人」であり、名前も顔も知らない。
でも、
もし、あなたの大切な家族が、仕事も住まいも失ったら?
もし、あなたの大切な友人が、同じ境遇にあったら?
それでもあなたは同じ議論ができますか?
と、問いたい。
「乾いた3人称の視点」とは、ノンフィクションライターの
柳田邦男さんの著書のなかにでてくる言葉だ。
柳田さんは、「2・5人称の視点をもつこと」を提唱している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2人称は肉親や恋人同士のように「あなた」と呼び合える
関係のこと。専門家が被害者や病人や弱者に対し、その
家族の身になって心を寄り添わせるなら、何をすべきかに
ついて見えてくるものがあるはずだ。しかし、完全に2人称
の立場になってしまったのでは、冷静で客観的な判断がで
きなくなるおそれがある。そこで、2人称の立場に寄り添い
つつも、専門家としての客観的な視点も失わないように努
める。それが潤いのある「2・5人称の視点」なのだ。
『言葉の力、生きる力』(新潮文庫) (235P)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「○○○○人の人員削減」と報道されるとき、
切られようとしている1人ひとりの、名前も、顔もみえてこない。
石原吉郎『望郷と海』(ちくま学芸文庫)の
言葉を思い浮かべてしまう。
ほんとうに、ジェノサイド(大量殺戮)のようなことが起きている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が
殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひ
とりひとりの死がないということが、私にはおそろし
いのだ。
・・・人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれ
なければならないものなのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
数字は、ひとつの客観的な認識・判断にはなるが、
そこには、人間がいない。「2・5人称の視点」がない。
また、よくでてくるのが、自己責任論である。
「努力が足りないから」「自分で選んだのだろう」
というぐあいである。
ここにも「乾いた3人称の視点」がある。
「弱いものは仕事も住まいも失って、死んでもしょうがない」のなら、
これは動物界と同じではないか。
私たちは、人間である。人間社会で生きているのである。
朝から腹がたってしょうがない
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。