今週の「プロフェッショナル 仕事の流儀」をみた。
プロサッカー選手の中澤佑二さんだった(番組HP)。
「自分はヘタだから」と人の何倍もの時間練習し、
生活のすべてをサッカーに捧げていた。
酒は一滴も飲まず、夜は10時に寝ているとか。
他の楽しみにはいっさい目もくれなかったそうだ。
その原動力は、サッカーへの愛と情熱である。
ほんとうにスゴイ。
努力のレベル。自分に妥協しない。
本物のプロフェッショナルだった。
この2日間ほど、テレビに映されていた
中澤さんの姿や言葉が、頭のなかをグルグルしている。
「自分の、仕事や活動にたいする態度はどうだろうか」と
考えながら。
もともとがいい加減な人間である。
そして、怠け者でもある。よく、さぼるのである。
努力のレベルはまったく比べものにならない。
そして、仕事や活動以外の楽しみも追求したいタイプである。
中澤さんのようにはなかなかなれない。
以前から、生活のほとんどすべてを捧げて活動に
打ち込む人をみては、「自分にはできないなぁ」と思い、
ある種の引け目を感じていた。
そんな思いをずっともっていたところ、
昨年読んだ、川田忠明さんの『名作の戦争論』(新日本出版社)に、
こうした一節があった。
「世界は、猥雑なモザイクである。そのことは、己のつま先か
ら彼方に広がっていく、地球の表面で起きていることを列挙
していくならば、容易に理解できる。様々な欲求に対応した、
無数の快楽が、夜景のように広がる一方、その同じ地表に
は、歓びとは無縁な過酷な現実がある。
厳しく悲惨な現実に心を痛める者は、禁欲的に己の存在を
問い直そうとし、快楽を享受する者は、愉快でない現実をつ
ねに意識の外に追いやろうとする。これは、二種類の人間が
いるというだけでない。己のなかにある二つの側面である。い
まや、この認識の仕方を再構築し、猥雑な世界の姿をあるが
ままに、意識的に観ることがもとめられている。
それは楽しいときにも、つらいことを忘れるなという説教でも、
つらいときにも、楽しくしよう、という軽薄なノリでもない。己の
幸福の追求においても、連帯と献身においても、それぞれに
誠実であるべきだということだ。その多義的な存在が人間であ
り、世界なのだから」(167P~168P)
この文章を読んで、少し救われた。
「連帯と献身」と「己の幸福追求」、どちらも大事に
すればよいのだと。
あたり前のようだが、じつは活動家は大なり小なり
こうした悩みを抱えていると思う。
相当な時間を活動に「奪われる」からである。
両者のバランス配分を、上手に時々調整しながら、
やっていくことが大切なことだと思う。
それにしても、中澤さんの姿をみて、
もうちょっと「連帯と献身」「自己鍛錬」のほうの
配分を多くしなければ、と思ったのであった。
いい加減な人間なりに、そんなことを考えている。
カゲ茶さんありがとう。
高田求さんの本に、「急ぐこととゆっくりすることの弁証法的統一」という
ものがあります。まあこの精神でいこうと思ってます。
あんまりゆっくりしすぎない程度に(笑)
投稿情報: 長久 | 2009年3 月25日 (水) 09:28
啓太さんは、自分では『もともとがいい加減な人間である。そして、怠け者でもある。よく、さぼるのである。』と言ってますが、社会科学は色々な文学を読まないといけないので、少しぐらい寄り道してもいいのでは(急がば回れ)ではないでしょうか?急ぎすぎた学者はノーベル経済学賞もらったのに、この間の金融危機で発表した論文が誤りであったことが照明されたわけですし
ゴールを見据えて、地道に行けばゴールに着くかと思われます。ゴールは逃げないので(近づくこともないですが・・・)
カゲ茶もがんばろ~~っと
投稿情報: カゲ茶 | 2009年3 月24日 (火) 00:24