どうも最近の寒暖差が影響してか、
体調がイマイチ。うーむむむ。気をつけねば。
さて、今年の目標のひとつ、
「映画を30本みる」はなかなか順調にすすんでいる。
このぶんだと、いけそうな予感がする。
なにより、やっぱり映画を観るのは文句なしに楽しい。
はらはら、どきどき、わくわく、じんじん、うるうる。
心が動く。精神の栄養剤だ。
さかのぼって、私が本格的に映画をみる習慣を
つけるようになったのは、もう10数年前のこと、
池波正太郎のエッセイ、
『映画を見ると得をする』(新潮文庫、1987年)を読んでからのこと。
第1章「何を観ようかと迷ったときは」
第2章「見方によってもっと面白くなる」
第3章「なぜ映画を観るのかといえば」
じつにシンプルな3章だて。
しかし、ここに、池波文学にも通じる
池波正太郎の哲学が凝縮されているのであります。
これは私にとって強烈なインパクトをもった本でありました。
詳しくは、ぜひ本書を手にとっていただきたいのでありますが、
私が一番深く共鳴し、「映画を観る」とは結局こういうことなのだと、
いまでも納得しているた部分を、以下、紹介したいと思います。
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映画は何のために観るかというと、定義は別にないん
だよ。山は何のために登るのかということと同じでね。
なぜ映画を観たり、小説を読んだり、芝居を観たりする
かというと、理屈では説明できないけれども、強いて言えば、
(人間というのは、一人について人生は一つしかないから・・・)
ということでしょうね。
だれしも一つの人生しか経験できないわけだ。その人生
が、はじめから満たされていて、生まれた日から青年期、
中年期、そして老人になっても全部の人生が満たされて
いるのであれば、もう自分の人生は最高のものだ、世界一
の人生だと思っているのであればね、何も他の人生に目を
向ける必要がない。
けれども、そういうことは普通は考えられないでしょう。
それに、人間というのは、自分の人生だけしか知らない、
一つの人生しか知らないというのでは、やはり、さびしい
わけだよ。だから、小説を読み、芝居や映画を観るんだよ。
すぐれた映画とか、すぐれた文学とか、すぐれた芝居とか
いうのを観るのは、つまり自分が知らない人生というもの
をいくつも見るということだ。もっと違った、もっと多くのさま
ざまな人生を知りたい・・・そういう本能的な欲求が人間に
はある。
これは、観たり読んだりする側の人間だけでなく、映画を
つくる人も小説を書く人も同じですね。映画監督、小説家、
芝居の作者、それぞれいろいろな定義もあるし理屈もある
だろうけれども、やっぱり根本は、自分以外の人生を自分
でつくり出していきたい・・・その欲求ですよ。少なくともぼく
自身の場合はそんな感じがするね。それで、もう何十何百
という人生を書いてきているわけだ。
自分一人だけの人生というだけでは、人間というのはあま
りにもさびし過ぎるから、そういう本能的な欲求があるから、
演劇が生まれ、小説が生まれ、映画が生まれてきたんだよ。
日本のドラマチックな演劇というものは、能楽から始まって
いるのだね。自分の人生以外の人生をつくり出して、それを
演じたり観たりするというのは、日本では能楽からじゃない
かな。文学はもっと前からありますよ。「源氏物語」もあれば
「平家物語」もあったわけだから。能楽以前に。
外国でも、そういう本能的な欲求があるからこそ、自然に
生まれたんじゃないかね。
だからね、映画は何のために、観るのかというと、それが
人間本来の最も自然な欲求だからですよ、結局。いくつもの
人生を観ること、それが映画を観ることなんだ。
(180~182P)
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今年観た映画で一番よかったのは、
「インビクタス~負けざる者たち」だけど、
南アフリカのラグビーW杯の実話をもとにした物語で、
時間も空間もこえて、ネルソンマンデラや、
さまざま人びとの人生、葛藤、歓喜を知ることができた。
はっきりいって、千数百円で、これだけの追体験が
できちゃうのは、映画しかない。得なのである。
最近観た「食堂かたつむり」は、
あらためて、一食一食の食事を、
感謝して「いただこう」という気持ちにさせられた。
食は命の源であり、人と人とをつなぐ文化でもある。
これも映画を観て強く感じさせられた。
映画を観ると、得をする。
こんな素晴らしい娯楽は、なかなかありませんよ。
ちなみに、池波エッセイは、どんな駄作映画のなかにも、
観るべきポイントがあって、まったく観て無駄な映画は
ないのだということも、教えてくれた。
このエッセイを読むと、断然お得なのである。
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