犬田布岬を出発し、ふたたび南下。
鹿浦小学校というところに、奉安殿が残っていると
観光パンフレットにのっていたので、行ってみることに。
11時過ぎに到着。おお、あれが奉安殿かぁ。
すぐ向こうの建物が小学校でした。子どもの声がしました。
写真をクリックすれば大きくみれますので、読めます。
奉安殿とは、ようするに戦前、そして戦時中に、
天皇・皇后の写真(御真影・ごしんえい)と、教育勅語を収めていた建物です。
それはそれは重要な建物で、日常的に拝礼の対象でしたし、
岡山空襲のときも、この御真影を焼失から守れなかった
校長が自害したというエピソードがあるぐらい、特別なものでした。
戦後は、ほとんどの奉安殿は解体されたそうですが、
全国各地にかろうじて残っているものがあり、
この鹿浦小学校も、その貴重なひとつだそうです。
たぶん、奉安殿そのものは、私も見るのは初めてです。
そばに寄ると、意外にも大きい! その大きさにびっくりしました。
人がふつうに入れます。
側面の穴は、戦時中、米軍機による銃弾のあとだそうです。
生々しい戦争の記録です。
ちなみに、ここ徳之島は、飛行場があったため、相当激しい
米軍の空襲があったそうです。
でも、こうしたものが、観光パンフレットにのってることがすごいね。
おかげで訪れることができました。
さて次に向ったのは、
泉重千代さんの像です。伊仙町のへそぐらいの位置にあります。
いったい、この人は何をした人かと言いますと・・・。
長寿記録でギネスブックにのったんです。はい。
120歳237日・・・。 ま、まぶしすぎます!!
ぼくが120歳まで生きれたら・・・2094年かぁぁ(笑)。
たぶんそこまでは無理。
毎晩、黒糖焼酎を飲んでいたそうです。・・・たぶん長寿には関係ないですが。
長寿の秘密をさぐろうと行ったんですが、
この像のまわりでは、そういう学びができるものはありませんでした。
ちなみに、この徳之島は、島全体が長寿の伝統があり、
現在にも引き継がれています。
また、お年よりも住みやすいということは、子どもも住みやすい、
子育てがしやすい地域ということでもあると言えます。
2009年の政府統計によると、合計特殊出生率が、
全国1位が伊仙町、2位が天城町、3位が徳之島町だそうで、
全国トップ3を徳之島の自治体3町が占めているそうです。
子だくさんの島でもあります。そして長寿の島。
つまり人間にやさしい島である、とも言えましょうか。
さて、次に、「復帰運動の父」と言われている、
泉芳郎(いずみほうろう)さんの記念像に行ってみることに。
重千代さんとおなじ泉の姓ですね。場所もすぐ近くでした。
この方は、奄美群島の日本復帰運動の指導者で、
教育者として奄美大島にいた人だそうですが、
出身がこの伊仙町ということでした。
まあ、ご存知の方が多いとおもいますが、戦後、
ここ奄美群島も、日本から切り離され、米軍の統治下におかれました。
1946年2月から、1953年12月までの約8年間です。
沖縄が日本に復帰するのは1972年のことでしたが、
ここ奄美でも、ものすごい「島ぐるみ」の復帰運動がたたかわれ、
復帰を果たしていくのですが、そのリーダーとなったのが、
この泉芳郎さんということです。詩人でもあったそうです。
じつは、2日後の8日(日)に、この泉芳郎像の広場で、
米軍基地移設反対の平和集会が行われるわけですが、
この6日の時点では、それに気づいていませんでした。
そして、7日から8日かけて行われた、
島一周「命のタスキリレー」の出発点と終着点も、ここの広場でした。
やはり、いまも徳之島の人びとのなかに、
この復帰運動の精神や志が、受け継がれているということを、
そうしたことを知るにつけ、感じたのでありました。
・・・うーん、今日は、ここまで!
まだまだ6日の報告はつづきます。
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