最近、「集まること」の大切さ、それが生み出すものの大きさを、
学習会などでも強調し、またその意味の深さをとらえ直している。
いま、私たちの活動は、
「集まることさえ困難」な状況があるからである。
ここで、ちょっと小難しい話。
人はもともと社会的な生き物なのだから、
集まって生活、労働している。
マルクスは、『資本論』の第11章「協業」のなかで、
多くの労働者が力をあわせることを、
「労働の結合」「結合労働日」と呼んで、それを、
「類的能力」の「発展」という視角から述べている。
「いずれの場合にも、結合労働日の独特な生産力は、
労働の社会的生産力または社会的労働の生産力で
ある。それは、協業そのものから生じる。労働者は、
他の労働者たちとの計画的協力のなかで、彼の
個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展させる」
(新日本出版社、新書版『資本論』3、577ページ)
労働者は、仕事のなかで、他の労働者とさまざまなに
協力し、連携しあいながら労働することで、
1人ではけっして得られないような成果や能力の発達を
創造することができる。
まあ、これはちょっと考えるだけで、わかることである。
集団でやったほうが、1人でやるよりも、より豊かなものを生み出せる。
しかし、マルクスはさらに、労働者がいっしょに仕事するときに、
誰が全体の指揮をとるのか、監督的な立場になるのか、
ということを問題にし、それは「資本の指揮」による、と書いている。
ようするに、「集まる」といっても、
質の違う「集まり方」があるのである。
ひとつは、「仕事の中での類的能力の発揮」ということ。
労働者は毎日職場で集団として仕事をしているわけだから、
じつはバラバラではなく、「集まって」はいるわけである。
しかし、これは「資本の指揮」のもとであるので、
当然「資本の自己増殖=搾取強化」という本質的性格が
その「集まる」ことの中身を規定していく。
つまり、仕事における「集まることによる高まりあい」は、
資本主義社会においては、意識しようがしまいが、
利潤の最大化を目的に行なわれる。もうけを生み出すための「集まり」なのだ。
当然、仕事の効率や成果が、最大目的として追求されるわけである。
それに付随して、「働きがい」「社会的貢献」「仕事仲間の連帯」
ということも生み出される。これは「つけたし」とならざるを得ない。
つぎに、もうひとつの「集まり方」、
私たちの「活動」における「集まる」ということである。
「活動」における「集まること」の意味は、なにより、
その資本の搾取強化と対抗するため、
またそれに加担し国民生活をかえりみない政治との対決のためである。
それは、資本に抑圧され奪われた人間性を取りもどし、
まともな職場や社会、政治をつくりだすための「集まり」である。
労働組合は、その最大組織である。
学習運動もそのひとつの「集まり」である。
集まることによって、痛みを共有し、問題を理解し、交流と連帯をふかめ、
解決のための具体的な道すじを考え、実践の指針をつくることができる。
だから当然、資本にとっては、目障りな「集まり」となる。
だから、集まることそれ自体を困難にするような「しかけ」が行なわれる。
日本の場合、資本が強制する長時間労働はその最大のものであるし、
自己責任論などのイデオロギー攻撃も、「集まる」ことを困難にするのに役立っている。
だからこそ、私たちの側が、「労働者が集まること」の意味をもっと意識し、
「集まることによって生み出される効用の最大化」を追求していく必要がある。
私たちの「集まる場」がどういう場になっているのか。
それを常に問い続け、磨き続けなければならない。
「集まること」は、もちろん「同じ時間と空間を共有する集まり」が
いちばん有効なことは間違いないが、
「書くことによる類的能力の発揮」ということも、同様にいえないだろうか。
時間と空間をこえて、文字は、「集める」ことができる。
それをまた、読むことでたくさんの人が「共有」できる。
そこから、生み出せるものも、たくさんある。
だから、活動において、ニュースや機関誌、雑誌などは、
特別な役割をもっていると言っていい。
「書きあうこと」は、個人と集団の力を伸ばしていく。
うーん、まとまらない(汗)。
最後は、なんだかよくわからないことを書いて
しまったけれど、まあ自分のなかで整理はついたので、
成果はすごくあった。書いてきてよかった。
これからも、私は学習運動というステージで、
「高まりあう運動文化」の
ささやかな実践を試みていきたい、と思う。
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