昨年、2回も岡山に講演にきていただいた、
客室乗務員の尾崎恵子さんから、
「私の東北関東大震災」というメールが
送られてきましたので、ここに了解を得て掲載します。
本当はその後の「職場編」もあるのですが、
ここは今後のシビアな「たたかいの課題」になるので、
残念ですが掲載は省略します。
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20011年3月11日。
日本航空の客室乗務員72名が不当な解雇の撤回を
求めた裁判の1回目。支援の傍聴に参加した私は、
東京地裁の大法廷で、あの地震に遭遇した。
客室乗務員たちの組合の委員長&原告団長の
Uさんと弁護団の渾身の陳述。
その内容にしみじみと感動した直後に、警報チャイムと
共に「震度4を超える地震がきます」と機械音の警報が
流れた。
すぐに始まった揺れ。
地面全体が大きく大きく揺れ続け「関東大震災に出く
わしたのかも…」と思ったりして、マジ怖かった…。
揺れが収まって外に出ると、周りの霞ヶ関ビルなど
からヘルメットをかぶって避難する人たちが途切れ
なく続く。
JRも私鉄も地下鉄も全面マヒで、溢れ出す帰宅難民。
トイレも公衆電話もバスやタクシー乗り場も、どこも
かしこも長蛇の列。
帝国ホテルのロビーは床に座り込む人々で、さながら
避難所の体育館のような有様。
携帯は電話もメールも通じず全く使えない。
傍聴券が足りなくて法廷内に入れず、どこか近くで
待ってるはずの同僚とも連絡が取れない。
お互いに歩き回り、探しまわり、すれ違い、ようやく
再会するまで3時間。
帰宅もホテル探しも諦め、同僚と二人、居酒屋に
腰を落ち着けて延々飲み続けた9時間。
午前3時に店を出て、明け方の東京駅で寒さに
震えながら構内の地べたに座り、更に過ごした
3時間。
復旧した東海道新幹線に飛び乗って、東京を後に
したのは地震発生15時間後、日付の変わった
翌朝の6時だった。
ほとんど情報に触れる機会のなかった東京から
大阪に戻り、大地震の様子を伝える映像の、
そのひどさに愕然としている。
被害が集中する三陸海岸一帯は、つい最近、
家族や友人たちと一緒に総勢7名で楽しく
2日間を過ごしたばかりの場所。
炭火で焼いた牡蠣とホタテの美味しさが忘れられ
ない松島海岸「かきの里」は、海からわずか数メー
トルの岸壁に建てられた小さなプレハブ小屋。
あの日、津波が押し寄せた時刻は、あの店の
営業終了予定時刻直後。
本当に親切に牡蠣を向いて食べさせてくれた、
あの朴訥な漁師のおじちゃんたちは避難でき
たんだろうか・・。
最初は怖そうに見えるけど実は優しい大将が、
今回もとっておきのネタを握ってくれた「大入り
寿司」は、孤立2000名と報じられている塩釜の
海辺。
働く事、闘う事、苦楽を共にした仙台出身の
整備士Hさんと一緒に訪れるはずだった
「金ちゃん寿司」。再会を楽しみにしていたHさん
の同級生のSさん。
皆さん、どうか、どうか、ご無事でいらして下さい。
ほぼすべてが壊滅状態と伝えられる陸前高田の
惨状を伝える映像が、被爆直後の広島の町並み
とだぶってみえた。
日々の営みが一瞬でたたき壊されることの惨さを
目の当たりにして、命の儚さと重さを思う。
誰からも殺されたくない。
平和に、幸せに、生きて、死にたい。
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