今日(28日)の夕方、玉野に『友』を配りにいった帰り道、
児島湾大橋を渡っていると、夕日に映える
岡山市街、そして空と海の色が、すばらしかった。
ふと、「世の中はしんどいことばっかりなのに、
自然はいつも美しいなぁ」ということが頭をよぎる。
(やっぱり疲れているのかな?)
さらに、旭川沿いを車で走っていたら、
その景色にひきつけられた。思わず車をとめ、携帯で写真をとる。
夕日をみながら、ふと、ある本の内容を思い出した。
アウシュビッツの壮絶な体験を、精神科医の立場から
考え、記録し、論じた、
V・Eフランクルの『夜と霧』(池田香代子訳、みすず書房)である。
収容者が、絶望的な状況のなかでも(なかだから)、
自然の美しさに心奪われるシーンである。
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被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが
強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状
況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュビッ
ツからバイエル地方にある収容所に向かう護送車の隙間から、
頂(いただき)が今まさに夕焼けの茜(あかね)色に照り映えている
ザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりしていた。
わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに―
あるいはだからこそ―何年ものあいだ目にできなかった美しい自
然に魅了されたのだ。
また収容所で、作業中のだれかが、そばで苦役にあえいでいる
仲間に、たまたま目にしたすばらしい情景に注意をうながすことも
あった。たとえば、秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイ
エルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立(こ
だち)のあいだから射しこむさまが、まるでデューラーの有名な水
彩画のようだったりしたときなどだ。
あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、
スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでい
たときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、
とにかく点呼場に出てこい、と急(せ)きたてた。太陽が沈んでいく
さまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をな
がめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤ま
で、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な
形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収
容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、
水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが
言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
(64P~66P)
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自然は、ときとして、圧倒的な美しさを私たちに見せてくれる。
とくに、太陽は、私たちにとって絶対的な存在だからこそ、
なにか畏敬(いけい)のようなものを感じてしまう。
そして、こうした美しい世界は、たとえ人間社会が閉塞感に
満ちていても、生活に疲れ、苦しいときであっても、
私たちに、「生きている」という、そのことのすばらしさと、
生きる力をあたえてくれる。
世界は、どうしてこんなに美しいのだろう!
私の大好きな言葉である。
よく間違えられます(笑)
投稿情報: 長久 | 2009年1 月29日 (木) 15:15
あら、今までてっきり「長久啓太の「剣客商売」」とばかり思っていたのですが、違ったのね・・・。???ふふふ
投稿情報: hanaara | 2009年1 月28日 (水) 21:03