今日の朝は、歯医者の日だった。
私は、3か月に一度、歯医者に定期的にかよっているが、
最近、ある歯の根の治療で、月に2度ほどかようようになった。
きょうも、痛かった。
もちろん、歯科医もできるだけ痛みを与えないように、
いろいろ気をつかってくれる。ありがたい。
しかし、痛みから逃れることは不可能なのだ。
痛い痛いと思いながら、治療を受けながら、
「痛み」について考えた(変な人間である)。
「ガンの痛みってすごいって聞くけど、どんなんかなぁ」とか、
「痛みってやっぱり他人にはわかないよなぁ」とか。
と、治療の最中、げぇ!これはイタイ!と思い、
顔をひきつらせた(と思う)。
その女性の歯科医師は、「痛いですか」と聞く。
私は「少し」と答える。ほんとうは結構痛いのだけど、
ガマンしているのである。
痛みは数値化できない。
体温ならば、「39度もあるんよー」と言えば、
「そりゃたいへんじゃ!寝とかれー」となるが、
痛みはそうはいかない。
痛みの大きさが測れて、「痛み度35%です」とか言えれば、
どんなに楽だろう。
おまけに、痛みの種類もいろいろだ。
ちくちく、ぎゅうぎゅう、がんがん、きりきりなど、多様な表現がある。
あるいは、
切られるような、突き刺すような、締めつけられるような、割られるような、
引き裂かれるような、という表現も使う。
さらに、
涙がでるほど、蜂に刺されたぐらい、がまんできないほど、という言い方もある。
痛みは多様なのだ。
そして、目に見えない。
外傷であれば、ある程度察しはつくが、
歯の痛み、お腹の痛み、頭痛などは、まったく目に見えない。
心の痛み、となれば、よほどの想像力がなければ、
それはみえてこず、わからない。
…話は一気に飛躍するけど、さっきまで、共産党の志位委員長の
国会質問をネット中継でみていた。
質問内容も驚きだったけど、麻生首相の答弁の姿勢もいつもながら、
やはり驚きだ。雇用崩壊の状況下、首を切られる労働者の「痛み」に
心を寄せる姿勢はまったくみられない。
人間の基本的な感情・想像力を喪失しているとしか思えない。
ルソーは『エミール』(岩波文庫)のなかで、
こんなことを言っている。
「苦しみを味わうことがない人間は、人間愛から生まれる感動も
快い同情の喜びも知ることはあるまい。そういう人間の心はなに
ものにも動かされず、かれは人づきあいのいい人間になることが
できず、仲間にたいして怪物のようなものになるだろう。
子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあな
たがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れ
られるようにしてやることだ」
麻生首相は、苦しみを味わうことがあったのだろうか。
なんでも手に入れられる環境にあったのではないだろうか。
人の「痛み」を想像する力は、人間のすばらしい能力のひとつであり、
痛みへの連帯こそが、希望をはぐくむと、私は思う。
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