きのうは、夕方18時から、岡山医療生協労組の
中央委員会で、『学習の友』を読んでください、という宣伝。
同労組では、「知的に輝き、活き活きと活動するため」に、
『学習の友』を使った学習会を月1回のペースで行うことを決定。
執行委員全員の『友』購読と、中央委員と専門部の委員は任意ですが、
参加を呼びかけ、『友』は組合ですべて買い取ってすすめる
ということになりました。
6月22日に、第1回目が行われますが、
それに向けて、中央委員にも呼びかけようということで、
20分ほど、私から訴えをしました。
内容は・・・反省することが多かったです(涙)。
もっとリアルな内容紹介にしたほうが良かったかなと。
教訓にしてがんばります。
訴えを終え、岡山市内のA保育園に移動。
19時から、福祉保育労の岡山支部の執行委員会。
この日のテーマは「おまかせします」とのことだったので、
「核兵器のない世界のために」という内容にしました。
私は、「核兵器とはどんな兵器か」ということを
「まず知る」ことが大事だと思っているので、
昨年2回ほど別の学習会でお話した内容のものを
少し圧縮してお話をしました。
終了後、とてもいい感想交流になりましたが、
ある保育士さんが、「津山の小学校だったけど、
毎年8月6日は平和学習で登校日になっていた」
というお話をされていました。
岡山にもそういう学校があったのかと、びっくりでした。
話の内容は、以下のようなものです(以前と変わりませんが)。
はじめに:「核のない世界へ」「核兵器を使用した国としての道義的責任」と
プラハで語ったオバマ大統領。画期的な転換点になる発言。
しかし、日本政府は「核抑止論」に固執。世界の逆流をいく被爆
国の政府。私たちは、核兵器廃絶のために、なにをすべきか。
まず原爆のことを学びます。
一。1人ひとりの人間の上に、原爆が落ちてきた
1。どういう人たちの上に落とされたか
◇街の中心部をねらって(資料①②③)
◇3分の2は、子ども・女性・お年寄りという、まったくの非戦闘員
2。死の放射線-猛烈な核分裂反応により、中性子の矢がつきささる(資料④)
◇100万分の1秒-原爆が炸裂する前
「爆心地にいた人々は、100万分の1秒に発せられる最初の中性子
から、それを避けることなく浴びました。そこにいた人は、いわゆる爆
風とか熱戦とか閃光がなかったとしても、全員が亡くなっていたであろ
うと推定されるわけです。誰1人避けることはできなかったのです」
(『原爆投下・10秒の衝撃』NHK出版より、広島電機大学葉佐井博士の話)
3。火球の出現-閃光と熱線(資料⑤)
「一瞬、目も眩むような閃光、あっと思った瞬間、思わず左後方上空
を見た私の目に、黄色とも、橙色ともいえない火の玉を見た。左の顔
面に熱い!と手をやったとき、暖かい風に吹きあげられ、身体が浮き
上がって、右前方に走るようにのけぞり倒れた。その距離は5、6メー
トルはあるだろう。そこまでは覚えていた」
(高野眞さん、当時27歳-爆心地から南東へ2キロ、比治山)
◇広島原爆の「火球」-3秒間の巨大なエネルギー放出
*100万分の1秒までに、爆弾内部の温度は250万度。原爆が炸裂、
火球出現。
*100万分の15秒、温度は40万度。太陽の70倍近い高温。火球の
直径は20メートル。
*0.2秒後、火球は直径310メートルに膨張。最も大きく、明るく見え
る瞬間。この時間から、2秒までの間に熱線の90%が放出される。
大量のガンマ線が放出され、空気と反応して紫色に見える。
*熱線は地上に突き刺さり、瞬時にあらゆるものを焼いた(溶かした)。
爆心地に近い人ほど、この熱線による火傷の被害が甚大だった。爆
心直下の場合、その温度は1千数百度~2千度以上になったと予想
される。
4。衝撃波の広がり
◇3秒から10秒のあいだに、広島市街は破壊された
*衝撃波は、音速以上の速さで、中心部から広がった。爆発の3秒後
に1.5キロ、7.2秒後に3キロ、10.1秒後に4キロの地点に到達し
たと予測される。
5。爆心地の人たちの「死」について
◇「人間」と「人間らしい死」を、原爆は否定した
*「あの日」亡くなった人で、家族に看取られながら死ぬことができた
人は、わずか4%。遺族は、肉親の最期のときをさまざまに想像して
苦しみ続けている。
*長崎の爆心地から北方700メートルにある山里小学校の防空壕の
中で被爆した少年の回想。「運動場のいちめんに、人間がまいてあ
るみたいだった。運動場の土がみえぬくらい倒れていた。たいてい
は死んでしまって、動かなかった」。
*広島の詩人峠三吉は、愛らしい女学生の死を「にんげんから遠い
ものにされはててしまって」とうたい(資料⑥)、「にんげんをかえせ」
と叫んだ。
◇広島での建物疎開(空襲に備えての道路拡張)学童の悲劇
*作業中に被爆、殺された学徒は約6000人。
爆心地付近(現在の平和公園一帯)では、9校、約2,000名が全滅。
戦争推進のための「総動員」の悲劇でもある。
*いったいどんな「死」だったのか。遺族の苦しみ。
「新大橋(爆心から約600m-長久)のあたりに行くと、全身火傷で水
を求めうごめいている中学生、女学生。倒れたまま、『おじさん、水を
ちょうだい』とあちこちから呼びかける声。だれがだれやら、親兄弟が
見ても見分けがつかないだろう。真っ黒に焼けた唇は、ぷうと大きく
ふくれあがり、顔が腫れ、目がつぶれ、わずかに開いているばかり。
あたりにはシャベル、鍬、バケツ、救急袋、弁当箱などが散乱してい
た。何百という無数の死体だった。橋の上、橋の下にもごろごろと人
が転がっている。巨大な瀬川倉庫は倒壊していて紅蓮(ぐれん-猛
火の炎のたとえ)の炎があがっていた」
(6日夕方。小川春蔵さん<当時33歳>の証言)
二。被爆者の「心の傷」を追って
1。被爆者の記憶の障害-見ているのに、見ていない
◇「あの日」の記憶の欠損
「見ても見えないという現象は、いきなり襲った『恐怖・驚愕』、想像
することさえできなかった事態の出現(一瞬にして消えたまち、大量
の異形の死体)に対する自我防衛反応と考えられる。それは本能
にのみしたがった逃避行動であり、視角入力の拒否である。これら
を通常のごとく入力していたのでは、身がもたないからである。この
メカニズムはほかの『不意打ち・大災害』でもおこっている」
(『ヒバクシャの心の傷を追って』中澤正夫、岩波書店、2007年)
2。「見捨て体験」と「見ても感じない(感情麻痺)」-自責感、自己査定
◇証言から(資料⑦⑧)
「自責感をともなう鮮明な記憶は、いくら経っても封印されることは
なく、逆に強化される。それは相対化されることを拒むきわめて『個
人的なもの』となり、その結果、さらに被爆者を苦しめ続けるという
悪循環におちいっていく」(前掲書)
「軽傷で余力のある人が大量の死体を見、運び、名前も確認せず
焼き、うめる。非日常的な光景である。日常的な弔いにつきものの、
情感の高まりをもっていては作業できない。死者に個人を感じない、
人間を感じない、『麻痺状態』でなくてはできない。その意味で、感
情麻痺も本能的に作動した自我防衛機制といえる。喜怒哀楽を感
じるメカニズムにバリアを張ってしまったのである。それでもあとに
なって『モノのように扱ったこと』『何にも感じなかったこと』は、人間
として許されないと、被爆者の心に深い傷として刻印されていくので
ある」(前掲書)
3。いまなお続く、引き戻らされ体験
◇ちょっとしたキッカケで、「あの日」の状況が、恐怖と自律神経症状を
ともなって脳裏に再現してしまう。フラッシュバック。
*場所、音、光、臭い。
◇病気になること-「いつ配達されてくるかわからぬ死を待つ人」
◇「体験を語る」ことは、強烈な「引き戻らされ」のキッカケとなる。
4。サイレント・マジョリティ
◇広島にて被爆した元軍医、肥田舜太郎氏によると、いつでも求めら
れれば自分の被爆体験を語れる人は、数千人のレベルであろうとい
う。これは、被爆者の5%ほど。
*いまも自分が「被爆者である」ことを語れないは、40~50%といわ
れている。
*原爆と自分を対峙させることにより、反原爆の思想を育てていく人
も多い。それらの人が被爆者運動を引っ張り、核兵器廃絶のたた
かいに立ち向かっている。しかし、そこまで踏み切ることがどんなに
困難なことかを、私たちは忘れてはならない。
*サイレント・マジョリティ、いまも原爆のことを語れない人たちの中に
こそ、「心の被害」の本質がある。
◇被爆者には今、「生き残ったことの意味」を問う意識が生まれているという
さいごに:原爆症認定訴訟、2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議
核兵器廃絶への世界的運動がカギ
私たち1人ひとりが、「核のない世界」のために、できることから始めよう。
なにより、核廃絶を世界で主導するような政府をつくるのは、主権者で
ある私たちの責任。
以上。
カゲ茶さんありがとう。
証言を読むのは、ほんとうにつらい。
慣れるものではないですよね。
投稿情報: 長久 | 2009年5 月22日 (金) 09:19
広島や長崎にいったとき、必ず本屋さんに立ち寄るようにしています。
地元の企業の社史に必ず、原爆のことがかかれてあり、貴重な証言なんかがあって、すごく重宝します
しかし、読むのはなかなか辛いです・・・何回読んでもなれません
投稿情報: カゲ茶 | 2009年5 月21日 (木) 21:19