きょう(29日)の午前中は、ソワニエ看護専門学校での
10回目の講義でした。
テーマは「ものの見方・考え方(2)-変化」でした。
最初に、読書日記をして、
そのなかで、平和と看護について少し語ってみました。
今日、6月29日は岡山空襲の日。
1700人以上が亡くなったこと。その人たちの命のこと。
そして、主要都市での空襲、広島と長崎の原爆。
医療者として、戦争への動きに敏感になってもらいたいと。
講義は、ものごとを「運動と変化」のなかで
とらえることを、事例を通じて考えました。
また、最後に、自分自身の可能性について考えました。
可能性は無限大。それが人間なのであります
そういえば、最前列の学生さんから、休憩中、
「先生、寝不足ですか?」と聞かれてしまいました。
やば! 疲労蓄積が表情にまで…。
まったくまったくすみません。
以下、講義の概要です。
一。長久の「看護・医療」読書日記
◇今週読んだ本
『看護時鐘ーのどもと過ぎた熱さをもう一度』
(川島みどり、看護の科学社、2009年)
二。ものごとは、動いている、変化する。
1。「どうせ」という時、私たちはどういうものの見方になっているか
◇たとえば・・・
*「どうせあの人は変わらない」「どうせ自分はこんなもの」
*「どうせやってもムダ」「そんなことしても変わらない」
*「どうせ世の中、そんな簡単に変わるもんじゃない」
2。ものごとを、運動・変化のなかでとらえる
◇静止・固定は相対的、運動は絶対的
*運動とは、物質の存在形態
*あるものが運動しているということは、そのものがそのものであり
ながら、同時にそのものでなくなっていくということ
*ひとりの人間も、その人でありながら、同時にその人でなくなって
いく。つまり、つねに運動・変化している。
3。患者さんは、変化している
◇『生きるってすばらしいね-植物状態からの脱出』から
(望月春江著、日本看護協会出版会、1981年)
*脳死宣告を受けた女性とその家族
*「病院の中の医師たちの機械的ともいえる言葉」(著者)
*「当分変化は起きません」「偶然でしょう」
◇ひとつの生命をどうみるか、という“哲学”が求められる
「生命の積極的肯定・・・無条件にその生命の可能性を信じるということ」
(川島みどり著『キラリ看護』、医学書院)
「患者のどんなに小さな変化や反応も見落とさない、気づきのアンテナ
の感度を、看護師なら意識的に高めなければならないのです」(同上)
「患者の表情や様子を何ひとつ観察しようとしない看護婦や、また何
か変化がありはしないかと思いもしないような看護婦は、まるでこわ
れやすい陶磁器の管理をしているようなもので、何も得られない道を
歩みつづけ、けっして看護婦にはなれないであろう」
(ナイチンゲール『看護覚え書』15章「補章」<看護婦とは何か>)
*「変化」は、身体的数値や見た目・表情という「目に見えるもの」だけではない
*日常行動の変化、言葉の変化、意欲・・・
*変化をとらえる知性と感性を
4。「経験」は絶対か
◇「今までこうだったから…、こうだろう」
*自分や他人の過去の経験を、時、所、条件からきりはなして固定化し、
その尺度ですべてをはかろうとする
*患者さんへの見方、他人への見方、人間関係
*社会への見方
◇対象となる現実は、つねに新しい要素をつけくわえながら、変化している
5。自分自身の可能性について
◇「今の自分」の枠の中で、「これからの自分」を固定的に考えるのではなく
◇「今の自分」を1年後、3年後、5年後に、「どのような自分にしていくか」
来週は「変化の法則性」について、です。
以上。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。