きのう(16日)は、ほんとうに久しぶりに、
平日を丸1日、休みにした。ずっと家にとじこもっていたのである。
(まあ、少し仕事に関わることもしていたのだが)
で、これまたほんとうに久しぶりに、
TBSの「水戸黄門」の再放送を見たのである。
(東野英治郎の黄門さま)
わが家のテレビ。
「アナログ」の字が
まだある。
場面は、最後、
ワル代官がひれ伏す
ところである。
16時20分頃から見始めたのだが(昼寝から起きた時間)、
ストーリー展開はいつも単純で流れも決まっているので、
すぐに話の大筋は理解できた。
そして、最後の「印籠」登場の場面である。
いつみても、「すごい」と思う。
なにがすごいか。
印籠は、つまり「家柄」を示すものである。
どこの家に生まれたか、ということである。
水戸光圀は、物語の前半、自分の立場を隠しつつ、
庶民のなかにわけいり、庶民を苦しめる悪政治を
こらしめるために一仕事する。
そのなかで、光圀は「やい、じじい」とか「じいさま」とか、「ご隠居さま」とか、
さまざまな呼ばれ方をし、対等か、または弱者として扱われる。
しかし、「印籠」をだした瞬間、それまでの人間関係は
まったく無視され、あるいは遮断され、
すべての者が光圀の前にひれ伏すのである。
ただ「その家に生まれた」という一点だけで。
憲法14条には、
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、
性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的、
又は社会的関係において、差別されない」とある。
ここでいう「門地」が「家柄」「生まれ」にあたる。
憲法の講義をするときに、たまにこの水戸黄門の
例を出す。みんな知っているドラマだからである。
「どこの家に生まれたか」によって、人間がランクづけ
されたのが、江戸時代(封建制社会)である。
水戸黄門は、それを非常にわかりやすく理解できる
素材なのである。
話は変わって、水戸黄門の、「悪」の描き方である。
これは率直にいって、うすっぺらい。
「悪」は「悪」の顔しかもっていないのである。
これは、水戸黄門という時代劇の制約でもあると思う。
視聴者にとっては、たいへんわかりやすい構図である。
「悪がこらしめられる」という単純な勧善懲悪の世界は、
万人に受け入れられやすいからである。
ここが、私の好きな池波正太郎の時代小説と決定的に
違う点である。「悪」は、単純な「悪」ではないのである。
「悪」と「善」は紙一重であるし、同じ人間のなかに、
「悪」と「善」が共存している。これが池波の人間観である。
水戸黄門の、こうした単純な善悪思考は、
果たして真実の人間観、
世界観として正しいのだろうか…。
なーんてことを考えながら見ていたら、
時代劇なんて見れないわけで・・・。
まあ、水戸黄門好きだから、
こんなことも考えるわけです、はい。
野澤さんありがとうございます。
100話もあるドラマですか・・・。すごいですね。
池波正太郎の小説はおすすめですよ。
とくに『剣客商売』がよいです(笑)。
投稿情報: 長久 | 2009年7 月21日 (火) 13:06
>「悪」と「善」が共存している。これが池波の人間観である。
私はまだ、池波正太郎さんおの時代小説は読んだことがないのですが、
私が最近「悪」と「善」について考えさせられたドラマに、チャン・ヒビン
という韓国ドラマがあります。
知人の勧めで観ているのですが、
100話あるので、33話のところで息抜きしています。
ゆえに、あまりおすすめできません。
今日は定休日なので、別の知人のすすめによる静岡空港見学となりました。
投稿情報: 野澤 | 2009年7 月17日 (金) 21:00
いのぱさん、先日はおつかれさまでした。
たしかに時代は進歩してますね。
ご先祖様は、士族ですかぁ。ほぉ~。
投稿情報: 長久 | 2009年7 月17日 (金) 12:25
私が、たとえに使うのは、ご先祖様が士族であるから、これをお話しする。
江戸時代は、だいたい農民であるし、高知市の与力町とか、知名からしてすぐに、士族であるかどうかがよくわかる。
いやー。時代の変化は、早いなあ
投稿情報: いのぱ | 2009年7 月17日 (金) 11:57