きょう(10日)も事務所でちょっとしたお仕事にはげむ
そのひとつが、2日後にある、学習会のレジュメづくりである。
いま私は、とある成長意欲あふれる青年たち(2人)と、
基礎理論を中心とした学習会を始めている。
今度の学習会で3回目である(月2回のペース)。
そして、今度の学習会のテーマは弁証法。
いつも展開に悩む、難しいテーマである。
その学習会のタイトルは、
「一筋縄でないから、おもしろい-弁証法的生き方のススメ」である。
講義の前半では、弁証法の世界観を紹介し、
後半は、弁証法を自分の生き方に応用してしまおう、
というのが内容である。
準備の過程で、エンゲルスのこの言葉に出会った(再会した)。
「しかし、この根本思想を言葉のうえで承認することと、
これを実際に研究のそれぞれの領域にわたって遂行
することは、別のことである」
(『フォイエルバッハ論』新日本出版社、72~73P)
「私にとっては、弁証法的諸法則をこしらえて自然の
なかへ持ち込むことは問題にならず、肝心なのは、
それを自然のなかに見つけ出し自然のなかから展開
することであった」
(『反デューリング論 上』「1886年版の序文」、新日本出版社、22P)
弁証法を「それぞれの領域にわたって遂行すること」
ということは、弁証法を自分の活動する分野、
研究分野に適応し、駆使することである。
私が名著と思っている三上満さんの
『眠れぬ夜の教師のために』(大月書店)は、
弁証法を教師論、教育論、子ども観に適応した
すばらしい実践例であると思うし、
中沢正夫さんの『ストレス「善玉」論』(岩波現代文庫)を
読んだ第一印象は「ストレスの弁証法的つかまえかた」であった。
弁証法は、世界のあり方に関する科学(原則)だから、
柔軟で、それぞれの分野にも適応可能なのである。
ところで、学習運動もそうなのだが、
科学的社会主義の講義をするときに、
弁証法とはこういうものですよ、ということを述べて、
それに適用する例を、自然や社会のなかからいくつか紹介して、
それでだいたい終了、となるケースが多いように思う。
それももちろん大事だが、それとともに、私は、
弁証法的なものの見方を「生き方」や「活動のあり方」に
適用してどんどん語るべきだ、と思う。
それは、私の実践的関心の強い分野であるからだけれど、
弁証法を日常に生かす、という視点が全体として弱いと感じている。
今後の私のライフワークとして、哲学的な視点で
「生き方」や「活動のあり方」を追求していきたいと思っている。
(その1つの試みが『学習の友』の哲学連載ともいえる)
もうひとつ。
私たち学習運動のなかでは、概念を教えることが
先行してしまう危険をつねにはらんでいる。
しかし、この世界は、
弁証法的なゆたかなあり方をしているのだから、
エンゲルスがいうように、
「肝心なのは、それを自然のなかに見つけ出し自然の
なかから展開すること」である。
教育方法のひとつの大事な視座であると思う。
また、レーニンは『哲学ノート』のなかで、こんなことを
言っているらしい。
「人間の諸概念は不動のものではなくて、永遠に運動し、
相互に移行しあい、相互に流動しあっている。そうでなけ
れば、それらはいきいきとした生活を反映しない。諸概
念の分析、諸概念の研究、諸概念を運用する技術は、
つねに諸概念の運動、それらの相互移行の研究を必要
としている」
基礎理論を「現実を裁断するものさし」に使うのではなく、
現実をいきいきとつかみ、
そのなかから基礎理論の有効性を確認する
ということが、大事なのではないか。
なんにせよ、難しい課題ではあるが。
まとまりないけど、以上。
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