日本民主青年同盟の機関紙、『民主青年新聞』(みんしん)の、
「『なんとかしたい』その先へ
~科学的社会主義のものの見方・考え方」
という3回連載の、
3回目、最後です。11月28日付。
唯物論って、簡単じゃないんだよ、ということを書きました。
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第3回 事実から出発する唯物論
「痛み」の原因は
ズキズキ、ズキズキ…。あれ、お腹が痛い。こんなとき、み
なさんはこう考えると思います。「イタタタ…。なにが原因だろ
う…。イタタタ…。食べたものかな? お腹を冷やしてしまった
かな? それともストレスか…」。これは、人間の「考える力
(知性)」の発揮です。ある現象(結果)にたいして、かならず
「原因」つまり「なぜ?」と考えようとします。因果関係をみつ
けだし、そこにある法則性をとらえようとします。
ところで、考えた「なぜ?」が、必ず正しいとはかぎりません。
考えた結果、「原因」を間違えて認識してしまうこともあります。
病気に対する人間の歴史を見ても、感染症にかかった人を「神
に呪われた罪人」「汚れた者」として、差別や迫害を行なってき
た歴史もあります。病気が、その人個人の問題や神の行いと
解釈されたのです。病気の本当の原因がまだ分からなかった
ことが、背景のひとつです。病気になった人への対処法も、祈
祷(きとう)や呪(まじな)いなど、「見かけ上の緩和」で終わっ
てしまいます。知識がとぼしく、原因を間違えると、働きかけの
方向も間違うのです。
では、同じ「痛み」でも、就職難、非正規切り、長時間労働、
過労死、貧困などはどうでしょうか。腹痛と同様に、「なぜ?」
と考えてみましょう。また、みなさんなら、どう答えますか?
もちろん、原因は一つだけではありませんし、複雑にからみ
あっている場合もあるので難しいのですが、なにを「主要な原
因」と見るかで、問題解決のための方向性もまったく違ったも
のになります。
じつは、こうした「社会」の問題になってくると、人によってか
なり「原因」への認識は変わってきます。「個人の努力の問題」
「能力の違い」「競争社会だからしょうがない」などから始まっ
て、「運命」「前世が…」ということを主要な原因と考える人もい
るのではないでしょうか。
なぜ、こうした社会問題になってくると、「原因」をめぐって、
さまざまな認識の相違が生まれるのでしょうか。それはひと言
で言えば、階級社会だからです。支配階級が、人びとの考え
や思想をコントロールし、社会的矛盾がたたかいに発展しない
ようにするのです。
資本主義社会では、資本家が、労働者階級に対して、そうし
た思想的コントロールをしてきます。逆に、労働者たちが自分
たちの苦しみの原因、その解決の方法をみつけだし、団結し
てたたかってくることが、一番イヤなことなのです。ですから、
社会のすみずみに競争の仕組みを配置して分断し(受験・就
活・成果主義賃金など)、「自己責任」の考え方をマスコミなど
の手段をつかって、浸透させるのです。
そうした結果、労働者の苦しみは、「個別化」され、社会問
題なのだという認識に高めることを阻害し、「あきらめ」や「現
状肯定」に、人びとを導いていきます。
世界をありのままにとらえる
ここで必要となるのが、科学的社会主義の唯物論といわ
れるものの見方です。たった三文字なので、おぼえるのは
簡単ですが、中身を実践するのはたいへんです。エンゲル
スは、『フォイエルバッハ論』という著作のなかで、その特徴
を、こういうふうに説明しています。
「すなわち、現実の世界―自然および歴史―を、どんな先
入見的な観念論的気まぐれもなしにそれら自然および歴史
に近づく者のだれにでもあらわれるままの姿で、とらえよう
という決心がなされたのであり、なんら空想的な関連にお
いてではなく、それ自体の関連においてとらえられる事実
と一致しないところの、どのような観念論的気まぐれをも、
容赦することなく犠牲にしようという決心がなされたのであ
る」
唯物論とは、あやまった原因(たとえば「公務員の賃金が
高いから国や自治体が財政難になる」「貧困になるのはそ
の人の努力不足」など)を浸透させようとする支配階級との
たたかいで、どうしても必要な立場です。そして、私たちの
認識のなかに必然的に入り込んでくる「先入見」「観念論的
きまぐれ」「事実と一致しない」ものを退けて、「ありのままに
対象をとらえようと努力し続ける姿勢」のことです(物質と精
神、どちらが元のものかという、いわゆる哲学の根本問題
からの理解も大事ですが、今回はあつかいません。ぜひみ
なさんの今後の学習課題にしてください)。
唯物論の立場でなにより大事なのは、事実から出発する
ことです。なぜ就職難や、若者の雇用問題が生まれるのか。
唯物論は、「こうだ」と決めてかかる前に、徹底的に事実を
集め、分析し、さまざまな関連を見、そこから原因や解決方
法を探ろうとします。
したがって、唯物論をつらぬくうえでの大事なポイントは、
集団で認識することです。一人ひとりが知れること、一人ひ
とりの認識には、どうしても限界があります。唯物論の立
場で書かれている新聞・雑誌や本を読むこと、さまざまな
人と事実にもとづいて議論することが、「なぜ?」を豊かに
つかむ有効な方法となります。集団と唯物論、民主主義と
唯物論は相性がいいのです。みなさんが民青同盟で日常
的に行なっている学びや討論も、唯物論の実践です。
事実から出発することを大事にすればするほど、前回学
んだ「弁証法」の見方も豊かになります。なぜなら、自然や
社会や人間は、弁証法的なあり方をしているので、ありの
ままに見る努力をすれば、弁証法的にものごとを見ること
ができるようになるからです。切り離せないものとして、唯
物論と弁証法を学んでください。
最後になりました。科学的社会主義のものの見方・考え
方のなによりの特徴は、解釈ではなく、変革のための理論
だということです。私たちが生きている社会を変えていく、そ
して自分や集団の成長のために、このものの見方は大きな
力を発揮します。今回の連載では、そのごく一部の特徴し
か紹介できませんでした。みなさんのさらなる学習を期待し
ています。
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