日本民主青年同盟の機関紙、『民主青年新聞』(みんしん)の、
「『なんとかしたい』その先へ
~科学的社会主義のものの見方・考え方」
という3回連載の、
2回目です。11月21日付。
弁証法は、前に向かって歩く力を後押ししてくれるのだ、
ということを書きました。
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第2回 変化をとらえる弁証法
マルクス・エンゲルスの青年時代
「人間は、歩くことをおぼえると、ころぶこともおぼえ、ころ
ぶことによってはじめて、歩くことをおぼえる」
これは、私の好きなマルクスの言葉のひとつです。ころん
でもいいから、前にすすもう、そんな気持ちを後押ししてくれ
ます。
でも、実際つまづいてしまって、「落ち込む」こともあります
よね。大失敗をしてしまったり、仕事や活動で思うようにいか
なかったり、人間関係でいろいろあったり。苦しんだり悩んだ
りといったことも、多いのではないでしょうか。
科学的社会主義の理論の基礎をつくりあげた、マルクスや
エンゲルス。あたりまえですが、彼らも人間です。その人生は
苦難の連続でした。とくに2人の青年時代は波乱万丈です。
職業選択をどうするか、仲間とのぶつかりあい、当時の「常
識」だったキリスト教の教義を乗りこえることへの葛藤、家族
との確執(かくしつ)、恋愛での悩み、などなど。
そのなかでも彼らの心を激しくゆさぶったのは、「目の前の
社会の現実」でした。劣悪な労働条件や貧困に苦しむ労働
者とその家族。経済的な矛盾からさまざまな社会のゆがみ
が生まれ、人びとの苦しみは絶えませんでした。
彼ら2人は、そのことから目をそむけ、別の人生を歩むこと
もできました。マルクスは弁護士の息子で、大学に行くことが
でき、能力も飛びぬけていた人です。エンゲルスも、住んでい
た町で1、2番を争うような工場経営者の家庭に生まれ、あ
まり不自由なく生きていける環境にあったのです。しかし彼ら
は、人びとの苦しみを見逃すこと、その現実を許すことができ
なかったのです。そこに彼らのヒューマニズムをみることがで
きます。
「なんとかしたい!」。この思いは、21世紀の日本に生きる
みなさんと、共通する部分があると思います。マルクスやエン
ゲルスも、19世紀のヨーロッパで、社会の変革に向かってい
ったのです。
彼らの青年時代のことを詳しく学びたい人は、この11月に
新日本出版社から出される『マルクス エンゲルスの青年時
代』(土屋保男著)を、おすすめします。いまとはかなり時代
背景も違い、難しいところもあると思いますが、彼らがさまざ
まな葛藤や悩みを抱えながらも、「目の前の社会の変革」の
ために、はげしい独習や議論を積み重ね、現実とのぶつかり
あいのなかで自分を成長させていく姿をかいまみることがで
きます。
社会は変化の過程にある
もちろん、今も昔も、現実というものは、なまやさしいもの
ではありません。さまざまな壁が立ちはだかります。しかし、
彼ら二人の、現実に向かう力、バイタリティは、すごいもの
があります。私は、その力の大きな源泉のひとつとして、
彼らが磨きつづけた、ものの見方・考え方(哲学)があると
思っています。
その核心は、弁証法というものの見方です。弁証法を説
明するというのはたいへん難しいのですが、自分もふくめた
対象をつねに変化・発展するものとしてとらえること、つな
がりのなかで見ること、また、その変化や発展の法則性を
つかむものの見方です。大胆にひと言でいうならば、「動的
な世界観」です。自然も社会も人間も、つねに動いている、
という見方です。
マルクスは、有名な『資本論』の初版への「序言」のなか
で、「現在の社会は決して固定した結晶ではなくて、変化
の可能な、そして絶えず変化の過程にある有機体」と、目
の前の資本主義をとらえました。
エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』という著作のなかで、
「世界はできあがった諸事物の複合体としてではなく、諸
過程の複合体」「この変化のうちで、みかけのうえでは偶
然的なすべてのものごとにあっても、またあらゆる一時的
な後退が生じても、結局は、一つの前進的発展がつらぬ
かれているという、偉大な根本思想」と説明しています。
また、弁証法はこうやって歴史や社会を変化・発展のな
かでとらえる見方であると同時に、私たち自身の前にすす
もうとするエネルギーを高め、活動を支える力にもなる、と
私は思っています。つねに動いている、変化しているもの
として対象をとらえるということは、「どうせ」という固定的・
断定的な見方をしなくなる、と言い換えてもいいかもしれま
せん。「どうせやっても変わらない」「どうせ自分なんか」「ど
うせあの人は」「どうせ日本の政治は」などなど。
どうせ、という見方をすれば、そこに働きかけていく必要
がなくなるので、ある意味ではラクになります。でもそれは、
冒頭のマルクスの言葉でいうならば、「歩くこと」をやめる、
ということです。もちろん、誰もがいつでも「前に向かって歩
く」ということができるわけではありません。「ちょっと立ちど
まる」ことや「待つ」ことも必要な時もあります。
でも、弁証法はやさしいのです。その瞬間、あるいは一断
面をみて、白黒つけません。ジグザグOK、迷い路OK。一
直線の前進、飛躍的前進ばかりじゃない、それが変化の法
則性だよ、という見方をするのです。失敗しても挫折しても
いいから、前にすすもうとする勇気と力を、弁証法の見方は、
後押ししてくれます。
小さな変化を大事にし、そこに発展の芽をみつけ、育てて
いく。失敗や困難をつうじて人間も社会も(私たちの活動も)
成長する。この弁証法の見方を、あらゆる分野や活動、調
査や研究、もっといえば人間関係にいたるまで、しっかりつ
らぬくことで、より豊かにものごとをとらえることができるよう
になります。
いまの日本社会は、古い過去と新しい未来が同居しつつ、
激しくぶつかりあっています。そうしたダイナミックな動きの
なかでの「過程」として、歴史や社会をとらえ、また仲間や
自分自身をとらえることができるならば、そこに働きかけて
ゆく楽しさも、グンと増してくる、と思います。
次回は、その弁証法をつらぬく見方をするためにどうして
も欠かせない、唯物論という見方を、学びたいと思います。
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