うーん、またしても長い記事になってしまった。
でも大事な問題なので、お許しを。以下。
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さいきん、とある若い活動家(複数)が、
「(若い人たちに)メールをしてもぜんぜん返事が返ってこない」
と嘆いていた。
メール文化がこれだけ浸透し、
会議や企画の案内を個人の携帯メールにすることが
かくだんに増えたことは間違いない。
私もよく使っている。
いまや、メールはさまざまな運動・日常活動にとっても、
欠くことのできない組織手段である。
しかし、メールで「呼びかけ」を行なっても、
「応答」が帰ってこない場合が、
うんざりするほど多いもの事実である。
これは、もちろんかなり個人差がある。
レスポンスの早い人は、だいたいすぐに返信がある。
しかし、ない人は、毎回のごとく、ないのである。
私自身は、「呼びかけ」があったら、
できるだけすぐに、どんな答えであろうと「応答する」と
いうことを大事にしようと思っている。
まあ、あたりまえのことだから、
こんなことを書くこと自体が恥ずかしいのだけれど。
2つ、題材を紹介したい。
私は、かつて衆議院議員だった故・山原健二郎さんの
資料館を高知で訪れたとき(その様子は旧ブログの こちら に)
「筆まめな人間になる」とカタク決意をし、
できるだけそれを実践している(まだ道半ばだけど)。
そして、国際政治学者の畑田重夫さんが、
戦前のマルクス経済学者河上肇さんからこんなことを
教わったというエピソードを、いまも胸に刻んでいる。
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河上先生の影響が私と妻みちるの2人にとって
どんなに大きいかは、手紙の返事はすぐに書くべき
だという先生の訓(おし)えがわが家にはずっと以前
から定着していることにもあらわれている。
河上先生は日常的なちょっとしたことについても、
合理的な説明ができた人であった。
先生いわく、『手紙やハガキをもらったら、できれば
5分以内に返事を書くのが礼儀というものです。人は、
もし近所だったら、「ごめんください」といって直接玄関
へ訪れるはずです。その時、「ハーイ」と言ったきりで、
いつまでも人を玄関に待たせるのは失礼でしょう。と
ころが、たまたま遠くはなれているから郵便制度とい
うものを利用して手紙やハガキをくれているのです。
それは、人が自分の家を訪ねてきたのと同じ意味を
もつのです。だから、返事はなるだけ早く書くべきで
す』と。
(『感動あれば生涯青春』みずほ出版、61P)
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もうひとつは、哲学者の高橋哲哉さんの『戦後責任論』(講談社)
という本のなかの
「応答可能性(responsibility レスポンシビリティ)としての責任」
という部分を紹介したい(23~30P)。
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私たちのまわりには、他者からの呼びかけがあふれて
いるということです。そもそも言葉というものは他者への
呼びかけ、あるいは訴えを含んでいます。聞いてほしい
という呼びかけを含まずに発せられる言葉はありませんし、
読んでほしいという呼びかけを含まずに書かれる言葉は
ありません。
これはなにも選挙ポスターや商品の広告だけではなく、
たとえば「おはよう」とか「こんにちは」とか、そういう挨拶、
呼びかけがそうですね。自宅やオフィスの電話、あるいは
最近たくさんの人がもつようになった携帯電話、PHSとか、
そういうものに飛びこんでくる言葉もそうです。テレビをつ
ければ飛びこんでくる言葉、新聞を広げればまた飛び込
んでくる言葉、そのほかにも私たちは毎日、無数の言葉
による呼びかけを受けとりながら生活しているわけで、
こういった無数の言葉による呼びかけをいっさい受けとら
ない、聞きたくないとしたら、私たちは社会生活をやめざる
をえない。他者と関係をもつことをやめてしまう以外には
ないんです。
すべての人間関係の基礎には言葉による呼びかけと
応答の関係があると考えられます。生まれたばかりの
赤ん坊を考えればすぐ分かるでしょう。生まれたばかりの
赤ん坊が最初に入っていく人間関係は、たいていの場合、
お母さんとのあいだの呼びかけと応答のきわめて単純な
関係なのです。
あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には人と人が
共存し共生していくための最低限の信頼関係として、
呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”がある
ことになります。もちろんこの応答にはさまざまな形があ
りますが、とにかく応答する、呼びかけを聞いたら応答す
るという一種の“約束”がある。・・・私たちは言葉を語り、
他者とともに社会の中で生きていく存在であるかぎり、
この“約束”に拘束されるとわたしは考えるのです。この
“約束”を破棄する、つまりいっさいの呼びかけに応答する
ことをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるを
えないし、結局は「人間」として生きることをやめざるをえ
ないでしょう。
人間はそもそも responsible な存在、他者からの呼び
かけに応答しうる存在である、responsibility つまり応答
可能性としての責任の内にある存在である。責任の内に
置かれている、responsibility といいたいのですが、もう
少しこれを説明します。
たとえば、「こんにちは」と呼びかけられたとします。他人
が私に「こんにちは」というときにはあるアピールがある
わけです。「わたしはここにいますよ、私の存在に気づいて
ください、私の方を見てください、私の呼びかけに応えて
ください」ということで挨拶の言葉を発するわけですね。
私はこの呼びかけを聞きます。聞かないわけにはいきま
せん。向こうが目の前に現れて、「こんにちは」とある意味
一方的に言うわけですから、わたしは気づいたときには
それを聞いてしまっているのです。私は呼びかけを聞いて
しまう。そうすると、明らかに、私はその呼びかけに応える
か、応えないかの選択を迫られることになるでしょう。
「こんにちは」に対して「こんにちは」といいかえすのか、
あるいは無視して通り過ぎてしまうのか。レスポンシビリ
ティの内に置かれるとは、そういう応答をするのかしない
のかの選択の内に置かれることです。明らかに、私は
応答を拒否することもできます。無視して通り過ぎることも
できます。文字通り「傍若無人」に通り過ぎることもできる
わけです。「こんにちは」と応えれば、私はこの意味での
責任をとりあえず果たしたことになるでしょうし、無視して
応えなければ、責任を果たさなかったことになるでしょう。
どちらの選択肢をとることも私はできるはずです。そのか
ぎり、その選択は私の自由に属するということもできる
でしょう。責任を果たすのか、果たさないのかは原則とし
て私の自由に属するのです。「こんにちは」という呼びかけ
に応えなくても通常は法的に罰せられるわけではありま
せんから、それは犯罪ではありません。
しかし、犯罪ではないけれども無視して応えなければ、
当然なんらかの結果が生じるでしょう。信頼関係が傷つく
とか、そういうことがありうるでしょう。私は責任を果たす
ことも、果たさないこともできる。私は自由である。しかし、
他者の呼びかけを聞いたら、応えるか応えないかの選
択を迫られる、責任の内に置かれる、レスポンシビリティ
の内に置かれる、このことについては私は自由ではない
のです。他者の呼びかけを聞くことについては私は完全に
自由ではありえない。このことは、責任というものが根源的
には<他者に対する責任>であり、<他者との関係>に
由来することを示しているといえるでしょう。もしもこの点に
ついても私が完全に自由であろうとするなら、他者の存在
を抹殺するしかない。他者からの呼びかけをいっさい聞き
たくないとすると、他者が存在しないところに私は生きる
しかないことになるんですね。
他者の呼びかけに応答することは、プラスイメージで、
人間関係を新たに作り出す、あるいは維持する、あるいは
作り直す行為、そのようにして他者との基本的な信頼関係
を確認する行為であると考えられるのではないか。それは
他者とのコミュニケーションそのものではないか。
…他者との結びつき、あるいは連帯関係に入っていく
ことができる。それがレスポンシビリティであるなら、それは
十分「歓ばしい」こと、「肯定的」なことではないか。
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引用が長くなりましたが、
「呼びかけられたら、応答する」ことは、
人間が社会の中で生きていくための根源的な
ルールのひとつであるのだと。
「無視」「無反応」って、
「呼びかけた人」にとっては、これほど寂しいことは
ないんです。
「答え」が望んだ答えでなくても、まずは「応答」がほしい。
もちろん、「呼びかける言葉」を、
相手の心に届く内容と表現で、読みやすく、
わかりやすいものにする努力の
必要性は、言うまでもない。
人と人がつながっていくために、
あたりまえの「応答関係」を育てていきたいものです。
sっさんコメントありがとうございます。
私は「言葉で伝わるのは7%」という考えは、
実感としてまったく賛同できないのいですが、
もちろん言葉以外のものも、すごく大事にしたいと思っています。
「伝える」ことのクオリティを高めれば、とうぜん「応答」も変わってきますからね。
投稿情報: 長久 | 2012年1 月16日 (月) 09:07
訂正です。
「小束」→「言葉」
失礼いたしました。
投稿情報: ss | 2012年1 月14日 (土) 23:19
コメント失礼します。
松竹伸幸さんの2011.11.1付けブログ記事に、「言葉で伝わるというのは7%程度」という医師の小束が紹介されています。
違う角度からの解決策を探求できないものでしょうか。
投稿情報: ss | 2012年1 月14日 (土) 23:16
なるほど、そういうことですか。
それは誰でも怒りますね。
人と関わりたくない人が増えている、のかなー?
投稿情報: あんみつ | 2012年1 月13日 (金) 16:41
メールを返さない。返信なし。もう一度メールする。返信なし。どうしても返事が欲しいので電話する。電話に出ない。時間を置いてもう一度かける。出ない。さらに時間を置いてもう一度かける。でもない。そして、相手から電話がかかってくることはない。
いったいどうしろというんでしょうか。怒るのも無理はない(^_^;)
投稿情報: ゆみた | 2012年1 月13日 (金) 10:44
ありがとうございます(T▽T)
畑田氏のエピソードも高橋氏の著作も、僕のもやもやをスッキリとさせてくれました。
また、僕自身も気をつけたいと思います。
投稿情報: ともき | 2012年1 月13日 (金) 10:19
書記長さんおうかれさまです!
やっぱり最後は対面・電話ですよね~。よくわかります。
もっと「応答」の割合が増えれば、少しは楽になるのですが。
投稿情報: 長久 | 2012年1 月13日 (金) 05:58
当方も、メールに限らない、さまざまな手段での呼びかけに対して応答がないのが常で、日々「点検」に相当程度の時間を割いています。
ただ、対面や電話を基本に、メールや「紙」は、補助的な手段として使っています。
投稿情報: 書記長 | 2012年1 月12日 (木) 22:39
たしかに電話のほうが確実だけど、
若い人はメールですね、もう。
メールの良し悪しはたしかにいろいろありますね(>_<)
それに適した使い方を、なんだろうな、結局。
投稿情報: 長久 | 2012年1 月12日 (木) 21:43
そうなんだー。
若い人からの応答、帰ってこないことが多いなんて、私、意外でした。
若い人からの方が、帰ってきそうな気がしてた。
私はいつも、なるべく反応をするようにしていますが、その方が、人間関係が豊かになるよねー。
でも、返信がないからって、あからさまに怒る人がいるけど、それはどうかな、って思う。もちろん、仕事の関係など返信したほうが良い内容のメールもあるけれど、確実に返事が欲しいなら、電話してきて欲しいな、と思うこともあります。
メールの使い方って、結構難しいと思うことがあるなー。
投稿情報: あんみつ | 2012年1 月12日 (木) 19:42