最近読み終えた本。
あいかわらずの乱読状態。
昨年は、労働学校の関係で、
哲学史とジェンダーが主に中心だったけど、
今年も、いくつかテーマをもって学びたい。
哲学については、まだまだ
未読文献が多いから、そこからかな・・・。
『小林多喜二とその盟友たち』(藤田廣登、学習の友社、2007年)
多喜二の命日の日(2月20日)に
読んだ1冊。
多喜二には、直接・間接に、
彼に影響をあたえた、また彼を支え助けた
先輩・仲間がたくさんいたということ。
多喜二は、集団のなかで、多喜二になった。
『派遣のリアル』(門倉貴史、宝島社、2009年)
派遣労働者の生の声がたくさん
出てくるのが良い。
派遣法の骨抜き改正案、
いままさに、国会で通されようと
しているが、とんでもないこと。
民主党政権はここでも裏切り。
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』
(想田和弘、講談社現代新書、2011年)
ひじょうに学びが多かった。
ドキュメンタリーの方法論にもたいへん
共感したし、発見が多かった。
しかし、想田さん監督の映画、
『選挙』『精神』『Peace』を観ていれば、
もっと面白く読めたのに。
この3作は、必ず観たいと思った。
もののみかた・リテラシーを磨く本でもある。
「ドキュメンタリーの作家は、台本から解放される
必要がある」
「一般に、ショットが長ければ長いほど、観客に
自分の目で観察・解釈できる時間が与えられる
ので、映像は多義的になる。逆にショットが短け
れば短いほど、作り手による操作の強度が高く
なり、映像は多義性を失っていく」
本書を読んで、マイケル・ムーアのつくる
ドキュメンタリー映画を、手放しで賛美できないという
ことを、あらためて思った。
ぜひ多くの人に読んでほしい。
想田さんは、岡山にも関わりのある人ですので。
『動中静有の人-上田耕一郎さんとの思い出集』
(集古洞銀の鈴記念館編、2011年)
どの人も語られるのは、
高い理論的力量と、その人柄。
人柄って、大事ですよ~。ほんと。
運動のリーダーは、とくに。
厳しさの中にあたたかさ。ヒューマニズム。
「組織であればあるほど、個人を大切に」
「原則であればあるほど、柔軟に」
「私なりに考える上田さんの文章力は、単に知識が
理論闊達であるから書けるという短絡的なものではなく、
広範にわたる各分野の文章との出逢いとその傾向を
分析して自分のものとする優れた能力と表現力があって、
尚かつ、実践を通して、あらゆる分野に精通した人間
上田耕一郎の叡智を蓄積する図書館のような『引き出し』
がなければ、裏づけが重層の文章、自信に溢れた文章、
理路整然とした文章、躍動する文章、地べたを這う文章、
キラキラ輝く文章など、平易で読者を引き込む文章には
ならないものだと考えています」(滝本正雄さんの述懐)
むかし、ある人から、上田さんの「論文の書き方」という
メモレジュメをもらったことがあるのですが、
いまでも大事にとっています。
ほんとうに、偉大な先輩です。
『犠牲のシステム 福島・沖縄』(高橋哲哉、集英社新書、2012年)
久しぶりの高橋さんの著書。
福島出身だったのか・・・。
4分の3は、大震災と原発事故を
めぐる問題。
あとの4分の1が沖縄。
全体的は、なるほど、という
ところも多かったのですが、
104ページの責任論のところで、
「国の政策を変えることができなかった責任」
についての議論を紹介しているが、
これには異論あり。
これは、そういうことを本人が自覚し、
本人が表明するぶんにはよいが、
「国の政策を変えられなかった責任」ということを、
他の人が「責任がある」と言うのは、違うと感じる。
もうひとつ、これはぼくの印象だけれども、
沖縄の問題で、
「沖縄の敵はヤマト(本土)の日本人」という
印象をあたえてしまう内容になっていることだ。
これは、沖縄問題では、よく出てくる議論で、
「ヤマトンチュー(本土の人間)」と「ウチナーンチュ(沖縄の人間)」
を対立的にみる傾向があるけど、
これははっきり有害だと思っています。
沖縄のほんとうの敵は、本土の日本人一般ではありません。
沖縄に犠牲を強いるシステムを守ろうとするごく一部の人たちでしょ。
そこは、はっきりさせないと。
高橋さんらしからぬ、大雑把な議論に最後は
なっている印象を持ちました。残念です。
『砂糖の世界史』(川北稔、岩波ジュニア新書、1996年)
一般教養本。
インフルエンザで自宅養生のときに、
本棚から「軽く読める本」ということで
ひっぱりだしてきたもの。
砂糖は、かつて世界貿易の主役の
ひとつだった。
奴隷労働とも深い関わり。
『さぶ』(山本周五郎、新潮文庫、1965年)
これは、傑作小説。
栄二とさぶ。いいコンビだ。
庶民の生きる苦労(弱さもたくましさも)を
山本周五郎は、わかっている。
名言がたくさんあった。
内容も文体も、よい。何回も読み返したい。
『死顔』(吉村昭、新潮社、2006年)
なんで買ったのかさえ
さだかでないけど、
家の本棚にあって、
これも「軽く読める本は・・・」の
なかの1冊。
あきやんさんありがとうございます。
なるほど、そういう視点からの問題を考える必要があるのですね。
私ももっとよく勉強せねばいけませんね。
投稿情報: 長久 | 2012年3 月18日 (日) 17:30
なかなか考えがまとまらないのですが・・・
私の感じているものは,沖縄の問題は「沖縄を日本の植民地」と認識をもつことから入らなければならないのでは,という考えです。
国連の人権差別撤廃員会は,日本政府に対し,2008年「琉球・沖縄人を先住民族として認めること」,2010年には「沖縄への構造的差別の問題解消」をもとめる勧告をおこなっています。
「先住民族」とは,独自の文化や言語を持ち歴史を育んできた民族が近代国家によって一方的に領土を征服され,言語の禁止を始めとする同化政策によって一方的に国民として統合され構造的な差別が継続している民族,と定義されています。
国連では,日本と沖縄の関係をこのように見て勧告が出されています。
そういう面からみると,先住民族の琉球・沖縄民族と植民者の大和民族との対立という構造になっていきます。
日本国内でこの勧告がどう受け止められているのでしょうか。
まったく議論も認識もされていません。
当の沖縄でもこの勧告の議論がされたはなしは聞きません。
沖縄大学の又吉盛清教授は「近代沖縄歩みは,一方では弱者の沖縄人が日本社会の底辺に位置づけられて,いち早く「体制化」して,大樹に身をすり寄せて生きる術をもとめた歴史でもあった。」といい「今日でもこの沖縄人の弱さは,克服されることはなく,むしろますます弱くなっているというのが,実情のように思われる」(『日露戦争百年』同時代社)といいます。沖縄自体が「先住民族」としての意識を封印する方向にむかってはいないでしょうか。
沖縄の本当の敵は,沖縄を植民地支配している人たちと,「植民地主義」を克服できない人たちのように思えます。
そして,多くの人が無意識のうちに「植民地主義」にのっかっているように思えます。
長くなって,おまけにまとまりがなくてスミマセン。
国連決議については,沖縄の季刊小冊子(「学習の友」よりも薄い冊子)『けーし風』第67号(2010年6月号)に「国連勧告をめぐって 脱植民地主義と沖縄の自己決定権」と特集が組まれています。
投稿情報: あきやん | 2012年3 月18日 (日) 16:42
あきやんさんありがとうございます。
いま、相方は医学生さんと一緒に、沖縄の基地と沖縄戦を学ぶ
フィールドワークツアーで、沖縄にいます。(明日帰ってくる)
『ウシがゆく』読んでません。
ぜひ、読みたいと思います。
ありがとうございます!
投稿情報: 長久 | 2012年3 月17日 (土) 20:46
>もうひとつ、これはぼくの印象だけれども、
沖縄の問題で、「沖縄の敵はヤマト(本土)の日本人」という印象をあたえてしまう内容になっていることだ。
これは、沖縄問題では、よく出てくる議論で、「ヤマトンチュー(本土の人間)」と「ウチナーンチュ(沖縄の人間)」を対立的にみる傾向があるけど、
これははっきり有害だと思っています。
沖縄のほんとうの敵は、本土の日本人一般ではありません。
沖縄に犠牲を強いるシステムを守ろうとするごく一部の人たちでしょ。
そこは、はっきりさせないと。
私の中で,まだまとまらないところです。
沖縄に深くかかわればかかわるほど,結論がでません。
「対立的」にみるのは有害であることには間違いないですが。
沖縄に長く住んでいる知り合い(県外者)と飲んだときに聞くはなし。
沖縄県出身者と飲んだ時に聞く話。
なんか,簡単にわりきれないものがあります。
いまのところ,沖縄にどっぷり深くつかっている友人と話すといつも「沖縄に移住すればいいのに,と言われるけど,ゼッタイできないよね」という結論になります。
もう読んでいるかもしれませんが
『ウシがゆく』
知念ウシ 沖縄タイムス社
ぜひ一読を。
なにか考えさせられます。
ちなみに知念ウシさんはダグラス・ラミスさんの相方だったと記憶しています。
それに沖縄の季刊誌『けーし風』。
これも,沖縄側からの発信と現状としていろいろ考えさせられます。
投稿情報: あきやん | 2012年3 月16日 (金) 23:14