前半のご報告です。
写真が前半だけで75枚も。
説明はできるだけカンケツにしたいと思います☆
【1月12日(土)】
那覇空港に10時半に到着。気温20℃。くもり。
さっそくレンタカーをかりて、糸満市へ。
昼食をたべ、そのすぐ近くの「白梅の塔」へ。
10年前にも訪れたことがある慰霊塔。
沖縄戦で急きょ看護要員の戦地に送られた女子学徒たち。
「ひめゆり」が有名ですが、この「白梅」や「瑞泉(ずいせん)」など、
さまざまな学徒隊がありました。
「白梅」は、沖縄県立第二高等女学校の生徒たちが
徴集されました。
ひめゆりと同様に、日本軍の野戦病院に配置され、
南部撤退のあと、解散命令がだされ、多くの戦死者を出しました。
立派な慰霊塔のうしろに、いちばん最初につくられた
簡素な慰霊塔があります。
慰霊塔のすぐ近くに、「自決の壕」が。
ふつうに普段着でも入れます。
ただ、15メートルぐらいまで行くと行き止まりで、
横穴は狭くて、通常装備では入れません。
つづいて、ひめゆりの資料館南にある「第一外科壕」へ。
資料館から数百メートル離れただけですが、
訪れる人はまったくいません。
こういう壕を、しっかり見てほしいと思うのですが。
なかまですすむと、水たまりになっていて、
それ以上すすめませんでした。
あきやん師匠を乗せた飛行機が遅れているとのことで、
さらに、海に面した具志川城跡へも足をのばしました。
海岸線。
15時頃、広島からきた
あきやん師匠と合流。
おっとちなみに、岡山からは、私と
平和委員会の谷口さんが参加。
3人で、さっそく西原町へむかいました。
沖縄戦での激戦地である「嘉数」や「シュガーローフ」は
本島中部の東側にあたりますが、
西原町は西側にあたります。
区画整理などもまだまだされていませんので、
日本軍の陣地壕などが多く残っています。
西原町小波津地区にある日本軍の陣地壕跡。
「前線支援のため野戦重砲兵第1連隊の1個中隊
(96式15センチ榴弾砲)が配備され、その陣地壕と
して使用された」(あきやんメモより)そうです。
「小波津地域が最前線になると、歩兵第32連隊第1大隊が
配置された」「小波津地域での戦闘は4月25日から5月2日
までつづいた」(あきやんメモ)
中に入ると、こんな感じ・・・。
長靴、ヘルメット、懐中電灯を装備して入っています。
ライトで明るく見えますが、もちろん真っ暗です。闇です。
壁にあった釘のあと。さび付いています。
これは灯りを置くところだったもよう。
中に進むと、足もとが泥のところも。
中から入口方面を眺める。
まー、よく作ったなーというのが率直な第1印象。
1944年の10月以降につくられたそうです。
沖縄戦の日本軍の陣地壕としては比較的入りやすい所
だったです。
まあ、こういう山の斜面につくられているわけです。
こちらは、小波津地区第一線陣地地区(米軍呼称・チムニークロック)。
この陣地壕は、急ごしらえでつくられたもので、
「掘り込み墓の墓室を利用したもののように思われる」(あきやんメモ)。
入口もせまく、入るものひと苦労。
中からみるとこんな感じ。
ひとつの陣地壕に数人単位で入っていたと推測されます。
出るものたいへん(汗)
あきやん師匠にひたすら着いていく。
道なき道をいきました。
そんなところにも、穴がある! って感じで。
しかし、日本軍の陣地壕といっても、
かなり簡易なもので、こんなんで米軍を迎え撃っていたのかと
思うと、兵士の恐怖はおおきいものだったのではないかと
推察されました。
陣地壕をみたあとは、西原町役場近くのに「西原の塔」へ。
沖縄戦において、西原町で亡くなった方の名前が刻まれています。
「摩文仁」の平和の礎と違うのは、
ひとりひとりの名前の横に、年齢が書かれていたこと。
それをみると、10歳にも満たない子どもの犠牲者がいかに
多いかということがわかります。
西原町では、半数近い住民が、沖縄戦で亡くなっているという、
戦死率の高い地域のひとつです。
【1月13(日)】
2日目です。朝9時にホテルを出発。
この日は、前日の3人にくわえ、あきやん師匠の
職場の方が参加。4人での行動でした。
まずは、南風原町の「ナゲーラ壕」へ。
第62師団の野戦病院として作られた人工壕です。
病院壕には、軍医・衛生兵・看護婦・首里高等女学校・
昭和高等女学校の生徒から構成された学徒隊などが
配属されていたそうです。
野戦病院としては南風原陸軍病院壕につぐ規模のものですが、
土地造成やこの壕の上が高速道路の料金所で、
かなり地崩れも多く、保存状態も年々悪くなっているそうです。
写真の小川が増水していると入れない心配がありましたが、
この日はなんとか渡れました。
左の穴から入りました。
かなり足元が悪く、サバイバルな感じでしたね(汗)。
入ってきます。
奥へすすみます。
さらに奥へ。
かなり大きな壕でした。
野戦病院なので、かなり穴の縦横の幅も広く、
手術室などもありました。
あちこちに穴がほられていました。
銃弾のかたまりも。
これは日本軍兵士のヘルメットです。
真っ二つに割れていますが。
釘を打ち付けているあとです。
このナゲーラ壕の野戦病院は、
5月20日に撤退命令が出されるのですが、
この壕内で起こったことは、悲劇そのものでした。
「ナゲーラ壕も阿鼻叫喚の世界と化した。死体を丁寧に埋葬する
余裕もなくなり、艦砲の穴に放り込む。壕内は、ウミ・ウジ・血の
臭いが漂い、患者の叫び声や呻き声、脳症患者のわめきや
自爆行為と、まるで地獄であった。爆死した患者の肉片が
壕壁にへばり付き、それをピンセットでとったこともあるという。
ナゲーラ壕でも3人の学友を失う。5月20日には撤退命令が
出され、豪雨の中、ナゲーラ壕をあとにした。最後の撤退は
25日、残された重傷患者には2個の手榴弾や薬が配られた」
(南風原町沖縄戦戦災調査10「新川が語る沖縄戦」より)
恐ろしい惨状が、この壕内で起こったかと思うと、
重たい気持ちにならざるをえませんでした。
つづいては、大里村西原の壕。
「主戦場ではないため、戦闘記録にもほとんど残っていない」
(あきやんメモ)だそうです。
「西原集落から大里城址にかけ、いくつも陣地壕の跡があり、
古い石壁に残る無数の弾痕を見ても、かなり激しい戦闘が
あったようだ」(あきやんメモ)
米軍の火炎放射攻撃で壕壁が黒っぽく(あるいはレンガ色に)
変色している。
かなり壕ないは広いところもある。
比較的入りやすい壕でした。
もちろん、真っ暗なので、ライトは欠かせません。
近くの民家の石壁に残る弾痕。
さらに、西原の壕から道路を渡り、
ギリムイウタキの壕へ。
またしても、道なき道を。
あきやん師匠はカマをもって、道をつくりながら先頭を行きます。
なんか、入れるところがありましたよー。
日本軍の監視所か、戦闘指揮所になっていた壕だそうです。
たしかに、見晴らしがよく、米軍の動きを監視しながら、
日本軍に連絡を入れたのではないかと思われる場所でした。
しかし、ほんとうにサバイバルな場所でした。
ここでいったん昼食休憩。
もりもりランチを食べたあと、午後は住民の避難壕(自然壕)を
中心にまわりました。
午後はさらにジャングルのようなところを突き進みます。
完全装備していないと、まず来れません。
しばらく道なき道を苦労してすすむと、
ぽっかりと口をあけたガマがあらわれました。
これは、シチナクブと呼ばれる住民避難壕です。
「玉城村が仲村渠一区の住民避難壕として指定割り当てしたガマ。
仲村渠だけでなく、南部へ避難してきた住民たちも入ってくるように
なった。
近くに日本軍の壕があり、定期的に日本兵が見回りにきたと
証言がある。日本軍の南部撤退にともない、日本軍が使用する
ため、シチナクブの住民はヤージガマへ移動を命令された」
(あきやんメモ)
写真ではなかなか実感できませんが、
そうとう大きく、威圧感さえ漂います。
ガマへ向かって降りていきました。
足元がわるい。
気をつけて!
入口付近には、竃(かまど)のような石組みが。
ここで何か火をたいてつくっていたのかもしれません。
壕内はかなーり広いです。
200人にもおよぶ住民が避難していたのもうなづけます。
広いです。
しかし、米軍のものすごい艦砲射撃や攻撃を受けながら、
この壕で身を潜めるしかなかった人びとの恐怖とは・・・。
なかなか想像もできないほどです。
シチナクブ近くの洞窟にも入りました。
日本兵の遺品が散乱していました。
つづいても、クシヤ-ジという住民避難壕にも行きました。
あきやん師匠はずんずん進んでいきますが、
道などどこにもありません(笑)。
ここにも、ぽっかりと口を空けた大きなガマが。
かなり足元は悪い。泥が多いです。
足元が泥なので、ガマの中に各世帯が床を敷き、
雨漏りもしないように避難小屋を整備もしていたそうです。
中から入口付近をみる。
でもね、ほんとうに、こんなところは通常、
人間がいるところではありませんよ。ツライ、ツライ。
地上に出ると、ホッとします。
つづいて、ウーガマという住民避難壕へ。
途中から、住民と軍隊が混在する壕になったそう。
またしても、密林のなかを分け入っていきます。
壕の入口はなかなかの急斜面。
このガマは、糸数二区の住民避難壕として使用されて
いたそうです。
「5月中旬になると、首里方面からの避難民が流れ込み、
日本軍もウーガマやアマチジョウガマに入ってきて、
区民を片隅においやった」(あきやんメモ)
入っていきます。
入口付近には、住民の生活用具と思われる遺品が
散乱していました。
さらに奥へ。
かなり先まであるガマです。
奥へ奥へ。
でも、ほんとうに怖い。真っ暗なところですから。
日本兵の靴底です。
靴底だけはゴムでできているので、
腐食せず残るそうです。
立派な鍾乳洞なんですけどね。怖いです、やっぱり。
このガマの奥のほうは、日本軍の遺品がありました。
住民を入口付近に追いやって、
自分たちは奥の安全なところに陣取る。
住民を盾にした日本軍。それが遺品からわかる場所でもあります。
つづいて、
マヤーガマへ。
きれいな公園の敷地内の一角にありました。
修学旅行生なども入ったりするガマだそうですが、
入口はなかなか急斜面です。
中はなかなか広い。
コウモリの大群。
生涯で初めてですね、こんな数のコウモリを見るのは。
この日最後に行ったのは、
照屋の陣地壕。
「日本軍南部撤退後、南下する米軍に対する前進陣地として、
第1大隊の第3中隊が(79人、内負傷兵52人)糸満市街から
照屋城址に配置された」(あきやんメモ)
入口はとても狭い。
気をつけて!(そんなのばっかりでしたが…)
陣地壕なので、野戦病院壕などとくらべても、かなり狭いです。
腰をかがめながらの移動が多い。
わずかに外が見える穴から、
米軍を銃で撃つところです。「銃眼」というらしい。
かなりしっかりした陣地壕でしたが、
いかんせん、戦後になって捨てられたゴミが多かった。
こうした戦跡が「ゴミ捨て場」になっていることも、
多いそうです。なんでこんなところに捨てるのか、
よくわかりませんが・・・。
この日は、9時に出発してから17時ぐらいまで、
かなりハードな日程でしたが、
多くの陣地壕やガマをまわれ、
沖縄戦のことをより知ることができたと思います。
沖縄戦の性格そのものが、「本土決戦のための捨て石作戦」
だったため、「降伏はゆるさない」「玉砕するまで闘う」
という消耗戦であり、それがとうぜん日本軍兵士の精神状況や
蛮行にも影響したことは間違いありません。
住民を巻き込んでの地上戦ということでは
沖縄戦は唯一であり、
軍隊は住民を守るどころか犠牲にした、という意味でも、
沖縄戦は、しっかりと後世に伝えることが必要です。
また、
こんなに多くの戦跡が、まだ残っているということも、
あらためてすごいと思いましたが、
そこで起きたことを想像することがなにより大事で、
そのためには、戦史や証言などを丁寧にあたり、
「この場で何が起きたのか」を感じながらまわることが
必要だと思いました。
その意味では、入ったとこ入ったとこで、
あきやん師匠が「ここで起こったこと」を説明してくれたので、
想像力を働かせることができました。
後半につづく。
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