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ハチに刺された箇所の腫れがなかなかひかない。ちょいと、かゆい。日常生活にはまったく問題ないけれど。ハチの毒性って、やっぱりなかなかのもの。そんなことに感心したりして。私の体に侵入した「異物」と、「これは私ではない(非自己)」を認識した私の免疫系が、いま激しいバトルをくり広げている。人間の体はまったくよくできている。がんばれ、ぼくの体
きのう(13日)は、35歳の誕生日でした昼間は、何も予定がなかったので、まったく放置されていたわが家の庭の草刈をしようと、午前中からはりきって草を刈っていました。ところが、雑草のジャングル地帯へ草刈の範囲を伸ばしたところで・・・。「バチン!」という痛みが、私の腕と右手親指に同時に走りました。(実際は音はしていないですが、こんな感じの痛みでした)「うわ!何かに刺された!」と、いそいで家に逃げ込みました。そのときは、何に刺されたのか、まったく姿は見えませんでした。私は、たぶん「ムカデにやられたかなぁ」と思い、大リーグ中継を見ながらしばらく痛みがおさまるのをまち、ふたたび庭で草刈を始めました。そうしたら、ふたたび雑草のジャングル地帯へ踏み入れたとたん!!「バチン!」と今度は顔のほほを激痛が走りました。「うわ!またやられた!」と前を向くと・・・。わらわらとハチが出てきて、「ブゥゥーン」とすごい威嚇音をだして飛んでいるではありませんか!(20匹近くはいた)ハチの巣が庭のどこかに、いつの間にかできていたのであります。 巣ができるほど、放置していた 日頃の行いに、天罰が下ったのでしょうか。 ←ハチに刺された現場。 それ以来、近づいていません(笑)。 草刈は中止されたのであります。ハチといっても、ミツバチじゃありません。足長バチとか、よくわかりませんが、比較的大きかったです。刺されたところは、まだ腫れがひきません。まだ若干痛みも。35歳のバースデイに、3か所身体を突き刺された私なのでありました。あう!ハチに刺されたのは生涯で2度目か3度目ですな。たぶん。夕方は、仕事から帰った相方と、児島のイタリアンのレストランへ。ちょっとリッチなディナーを食べたのでありました。 35歳・・・。 40代を意識する年になりました。 30代の残り5年間で、 自分や運動をどう成長させていくのか。 いろいろな人生設計もありますし。 しっかり考えたいです。 ま、1年、1年の積み重ねですけどね。
本島(ほんじま)で読んだ本が、『「顔」ってなんだろう?』 (馬場悠男、NHK知るを楽しむ2009年2-3月・NHK出版)テレビ放送がもとになっている本です。 一応、目次を紹介しておきます。 第1回:顔、この不思議なもの 第2回:アジアの顔とヨーロッパの顔 第3回:縄文顔と弥生顔 第4回:「殿様顔」の出現 第5回:子ども顔と大人顔 第6回:日本人はウインクが苦手? 第7回:「見る顔」から「見られる顔」へ 第8回:「未来顔」はこうなる生物や、人類の進化の過程をとおして、「顔」とは何か、「顔」の変遷が考察されていて、とても面白かったのですが、あらためて、表情の重要性について確認できました。「顔」とは、①植物や菌類(すなわち動かない生物)にはなく、 「動物(すなわち動く生物)特有のもの」である。②動物のなかでも「一定の方向に速く動く動物 だけにあるもの」ということ。「顔」とは、まず「口」なのです。動物は、外界から食物を効率よく摂取するために、一定方向にすすむときの前端に「口」をつくっています。へび、猫、鳥、かえる、豚、魚・・・みんなそうですよね。「口」ができると、それに対応して新たな要請が生まれてきます。より速く、より確実に食物を取り込むこと、生存してゆくために外敵や障害物をいち早く察知すること、などです。そこで、これらの要請を満たす器官、目・鼻・耳、など周囲の情報を収集するための感覚器官が、口の周辺に集中してできた。そして、体の前端・口・感覚器官という3点セットがそろったとき、「顔」というものが形成されたのです。人間の「顔」は、動物とはまた少し違った過程の進化をとげてきましたが、そもそも、私たちはなぜ「顔」に関心をもつのでしょうか。人間の脳のなかには、顔を認識しようとする特別な神経細胞があるそうです。ひとつは、「認識」の手段です。高等哺乳類などはそうですが、他の個体を正確に認識することが重要になります。群れで暮らす社会的な動物では、個体のあいだで厳しい順位や関係性があるので、顔の特徴をしっかり覚えて個体を識別できないと、集団的な生活ができないことになります。したがって、人間の場合もそうですが、人を見る場合、まず「顔」を見るわけです。顔でその人を認識するのです。あたりまえですが。そしてもうひとつ、人間の場合は特にですが、「コミュニケーション」の手段ということで「顔」は重要な位置をしめます。その典型であり、また原形ともいえるのは、人間の赤ちゃんとのコミュニケーションです。笑顔、不快な顔、泣き顔、怒り顔…。赤ちゃんの表情、赤ちゃんを見る側の表情、お互いの表情でコミュニケーションをとるわけです。大人になっても、コミュニケーションの手段は増えますが、この基本は変わりません。表情で相手の心を読み取ろうとします。人間は「表情筋」を動かし、喜怒哀楽の表情をつくりますが、大枠のところ、人類に普遍的な「表情の型」があり、相手の表情から、その心の動きを読む取ることができます。笑顔の型が、多少の違いはあっても、万国共通であることは、容易に想像がつきます。で、ここまで書いてきて、何を言いたいのかというと…天に唾(つば)するような気持ちで書きますが…活動家の表情が悪すぎます!!(もちろん、一部の人であることをお断りしておきます)ニッコリあいさつ、これ、人としての基本です。とくに幹部のみなさんは気をつけなければいけないと思いますが、「あなたの表情、見られてますよ」と言いたい。選挙でも感じたことですが、わが陣営の運動員には、笑顔が少なすぎます。手をふるときは、ニッコリ笑顔でしょう。それは。さらに天に唾するつもりで書きますが(笑)、手をふるときは、相手の表情をみましょう。「顔」と「顔」がコミュニケーションするのです。一瞬の間で。私は、選挙で、手をふっているとき、必ずどんなときでも相手の「顔」を見るようにします。「見ています」というメッセージが伝わりますから。選挙のことついでに書きますが、「しんぶん赤旗・日曜版」の今週(9/13付)の13面。20代候補者の手記が載っていて、内容はすごく良いのですが、池内沙織さん(東京12区)の写真・・・池内さんの笑顔は抜群なんですが、その横にいる人の表情…。(個人を攻撃する意図はありませんが…)いわゆる無表情です。一般有権者からみれば「やる気なし」と思われます。池内さんの表情とのアンバランスが恐ろしいほどです。なんでこんな写真を使うのでしょうか。写真がだいなしです(と思う)。・・・すみません、つい書きすぎました。生意気であるとのお叱りも甘んじてお受けします。お許しください。ようは、「人からどう見られるのか」ということについて、科学と感性の目をきちんと持ちたい、ということです。「表情」、大事にしたいです。
きのう(9日)は、久しぶりに平日に休みをとって、体は少々疲れていたけど、「どこかにリフレッシュに行こう!」と考え、前日に目星をつけた瀬戸内海の島に突撃ひとり旅をすることに。島旅人生は続くのでありました。朝、早島駅から電車に乗って児島駅まで。そこから徒歩5分で児島港に。ここから、塩飽(しわく)諸島(香川県)の、本島(ほんじま)という島に旅客船が出ているのでありました(これも前日調べて知った)。 9時30分、 この旅客船に 乗って、出発! 本島往復 1,180円なり。 瀬戸大橋をくぐって、 船はざぶんざぶんと進みます。 ひろーい空と、 見事な雲。 瀬戸大橋も 映えますな。20分で本島に到着。本島は、周囲16キロの、まずまずの大きさの島でした。しかし、例のごとく、ほとんど予備知識なし。これが逆に、楽しいのでありますが。 島におりて、さあどうしよう、 と思っていたら、 すぐ目の前にレンタサイクルが ちゃんとあるではないですか。 1日500円なり。 これで移動手段はOK.さて、まずどこに行こうかと、港にあった島の地図をしげしげと眺めました。地図ももたない無謀旅でした。地図を眺めると、どうも北東に観光地そうな地区があるので、まずそこから攻めてみるかと、自転車で向かいます。 島の東を ぐるっと 走ること20分。 笠島という 地区に着きました。 どうも町並み 保存地区に なっているところ らしい。 古い建物が きれいに 並んでいました。 しばらく町並みを 味わいながら ゆっくり歩きました。 で、この写真の 左側の家が、 町並保存センターに なっていたので、 入ってみることに。 200円なり。町並保存センターに入ると、年配の女性がいて、まずお茶を出してくれ、その後30分以上、マンツーマンで、この笠島地区の歴史や特徴について丁寧に説明をしていただきました(感謝!)。この笠島地区は、国の「重要伝統的建物群保存地区」に選定されており、戦国~江戸時代に、瀬戸内海をブイブイといわせた塩飽水軍の本拠地(城下町)だったそうです。笠島地区の東に、塩飽水軍の城跡があるそうです。その名残りで、江戸後期の建物が13棟、明治時代のものが20棟ほど残っているのだとか。よくテレビドラマや映画のロケ地としても使われてると、説明していただいた女性から教えていただきました。予備知識まったくなしの島訪問だったので、「ほ~」「は~」「へ~」の驚きの連続でありました。こんなところに、こんなステキな場所があったとは。また、空き家になったところで、民泊もやっていて、その家の中まで案内してくれ、とてもリーズナブルな値段だし、「これはいい!合宿なんかで使える!」といううれしい大発見もありました。さて、発見と興奮の笠島地区での1時間を過ごし、ふたたび自転車で島をぐるっとまわってみることに。 けっこうなアップダウンもあり、 久しぶりに体に負荷をかける 運動になりました。 1時間ほどで、島を1周しました。 港に戻って、おそらく島で唯一の 昼食が食べられるレストランに。 メニューに悩みましたが、 ここは椎名誠さんに習って、 カレーライスとビールの黄金コンビに。 いや~このカレーライスの器も、 いわゆるカレーの器でした(笑)。この真っ赤なふくしん漬けは、着色料たっぷりなので、手をつけませんでした。真っ赤なふくしん漬けには気をつけましょう。さて、昼食を食べ終わり、時間は13時前。自転車1周で目星をつけた、港近くの海水浴場でのんびりしようと、向かいました。もってきていた1人用ビニールシートをひいて、ごろんところがり、昼寝。読書、そして昼寝。 基本、ウトウトしながら のんびりしていると、 「にゃ~」とかわいらしい声。 白ねこさんでありました。 またしばらく昼寝をしていると、 暑くなって目がさめました。 それまで曇りがちだった空が、 カラッと晴れに。 しずしずとビニールシートを 木の下にもってきて、 日陰でまたしてもゴロゴロ…。 結局、3時間ほど、この砂浜に いました。 3時間、私の他に人はおらず…。 のんびり波の音を聞けました。さて、16時ごろになり、晴れてきたので、別の目的地へ。「塩飽勤番所」という島の歴史が学べる資料館があったのですが、行ってみると、16時で閉館…。この日、最大の失敗事でありました。すごすごと自転車をこぎなおし、島随一の展望所に向かいました。さきほど訪れた笠島地区から、急な山道を登ること約10分。遠見山展望台というところでした。 到着! 瀬戸大橋と 島々がよく見えました。 晴れて よかったぁ~。 岡山、 児島方面。 展望台で 1時間半ほど 過ごしました。 だんだん瀬戸大橋が 夕陽色に なっていきました。展望台からおりて、自転車で港方面に帰っていくことに。 なんで島にはこんなに ねこが多いのだろう。 海が近いからでしょうか。 この日だけで、 20匹くらい出会いしまた。 だんだんと 日没が近くなってきました。 瀬戸内海は、やっぱり 独特の風景の 美しさがあると思います。 夕陽にそまる 瀬戸大橋を アップで撮影。 電車が 走っているの、 見えますか? 瀬戸大橋は、 もちろん人工物だけど、 なかなかどうして、 こうしてみると 形がアートですね。さて、港に戻って、船を待つことに。待っている間も、自然の美しさに心癒されました。 光がつくりだす 美しさって、 圧倒的な気がします。 ただただ、 見とれます。 西の方を眺めると、 空が 不思議な光に つつまれていた。 なんか、ほんと、 すごかったなぁ。 香川方面。 丸亀のあたりの 灯りです。 香川へ向かう フェリー。 児島には、人しか 乗れない旅客船しか 走ってません。 すっかり夜に なりました。19時10分の船で本島をはなれ、児島へ向かいました。自転車と歩きで、体力をずいぶん使い、少々疲れましたが、島の歴史や風景にふれ、いいリフレッシュになりました。本島、いい島でした。次はどこの島に、いこっかなー。
最近読み終えた本。『13歳からの「いのちの授業」』(小澤竹俊、大和出版、2006年) ソワニエ読書日記13冊目、 ホスピス医の先生の本です。 すごく自分のなかで整理がついた図があって、 人間にとっての「生きる支え」になる3つの柱の話。 *時間の柱…夢や目標 *関係の柱…その人を取りまく人間関係 *自律の柱…自分でできる選択の範囲 3つの柱が安定していれば、その人の生活や生き方も安定します。しかし、柱が折れたり、ゆがんだりすると、人は支えを失い、グラグラと不安定になります。自分はどんなものに支えられているだろう。まわりに、どんな支えとして役立てているだろうか。そんなことを考えました。人間はひとりでは生きていけない。そのあたり前の大前提から出発していて、とても共感できる話が満載です。やっぱり、「医」は「哲学」だなぁ。『死ぬのは、こわい?』(徳永進、理論社、2005年) 大好きな徳永医師の本。 ソワニエ読書日記14冊目。 こちらも青年向けに書かれた 生と死の話。 夢二くんという架空の中学生と、 徳永先生が一緒になって、診療所でおきる出来事、 患者さんとのふれあいや 患者さんが生活する地域について考えます。「命っていうのはね、どう生きようかって頭で考えていようがいまいが、とにかく拍動してるもんでね、そこに命の泉みたいなものがあって、そこで湧いている限り、命は在るよ。ダ液だって湧く、ムラムラとした気持ちだって湧く。あの人に会ってみたい、あの山に登ってみたい、海にもぐってみたい、旅に出てみたい、何でもいい、湧けばどれだって、すごい命だよ。だって湧かなくなるんだ、誰でも。人でなくても動物でも植物でも。命って湧くっていうこと、死って、湧かないってこと、だよ、違う?」『死の中の笑み』(徳永進、ゆるみ出版、1982年) その徳永先生が初めて書いた本。 33歳のときだというから、 そのことにまず、心底驚きました。 33歳にして、この感性と洞察力と、 医師としての力と眼。恐れ入りました。 徳永先生の本は、いつもですが、 内容は、ほぼ患者さんの話。 患者さんの生活、労働、地域という 背景をつかむ視点も豊か。 人をどうみるか、見習うべき姿勢です。『広島第二県女二年西組-原爆で死んだ級友たち』 (関千枝子、ちくま文庫、1988年) 広島の被爆の実相で、長崎との違いの ひとつは、建物疎開作業に動員された 学徒たちの悲劇です。 本書は、8月6日の「あの日」、下痢のため 作業を欠席して死をまぬがれた著者が、 1人ひとりの遺族やその関係者を訪ね歩き、 クラス全員の「生」と「死」について綴った 1冊です。原爆は、「何万人死んだ」という、「数の大きさ」で、その被害をとらえる向きがありますが、私はやはり、「1人ひとりの人間の上に、原爆が落ちてきた」ということを、強調していきたいと思います。著者の調査の執念が、すさまじいです。どれだけの苦労があったのか、心痛があったのでしょうか。「自分だけ生き残って…」という負い目をどれだけ背負って生きてこられたのでしょうか。級友たちの「死」、そして自分の「生」。被爆者の思いにもふれられる本だと思います。最後の「原爆と靖国」も必読です。広島の被爆者は誰も靖国には入っていないと思ってたんですが、建物疎開の作業中に被爆死した教師や学徒は、入れられてるんですね…。「天皇のため、お国のために働いていたから」なんでしょうか。英霊ですか…。悲しい響きです。『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』(大野允子、ポプラ社、2005年) これも上で紹介した関さんの本と 性格が似ています。建物疎開学徒の話です。 こちらは「第一県女」。 13歳、14歳の少女たちの「生と死」です。 遺されていた9冊の日記帳には、 学校生活への期待、家族への思い、 日常生活などが少女らしい目線で つづられています。軍国教育や戦争の色合いが濃く、その影響がみられますが、自分を伸ばそうという気持ち、家族へのいたわりなどが、日記から伝わってきます。そんな家族生活、学校生活を送っていた彼女たちが、8月6日、突然、その生を断ち切られるのです。前半の日記を読んだあとに、彼女たちがどんなふうに殺されていったのかを読むと、苦しく、涙をぬぐいながら読みました。************************建物疎開に動員され、死んでいった学徒の本を2冊読んで、私は、今年読んだある本が、頭をよぎりました。それは、『デス・スタディ-死別の悲しみとともに生きるとき』 (若林一美、日本看護協会出版会)です。そこには、愛する人、大切な人との突然の死別が、いったいどういう心の傷を、残された人に与えるのか、ということが書かれていました。死別や喪失によって生じる感情を“Grief”グリーフ(悲嘆)と呼びます。「ある人は、死別による悲しみをさかんに話したがり、またある人はうち沈み、沈黙する。人によっては、今までと変わらないふるまいをすることで、悲しみを自分の内部に押し込め、心のなかの痛みと直面するのを避けようとすることもある。誰もが涙を流すとは限らない、グリーフは、非常に個別的なものであり、強い痛みを伴うものだ」(27P)「子どもを失った悲しみのなかには、他人とわかち合うことが可能なものもある。しかし多くの親がいだく罪意識、怒り、恐れといった感情は、なかなか他の人にはわかりにくいものだ。 罪意識は、なぜもっと早く病気を発見できなかったのかという類の子どもの死に直接かかわるものから生じることもある。そして、自分たちがとった行動とか、するべきだったのにしなかったという後悔から、自分自身をさいなんでいく。 また違うかたちの罪意識…たとえば、父親が、ほしがっていたおもちゃを買ってやればよかったとか、仕事をもつ母親がいつもそばにいられなかったことを悔いるといったものもある。何か過去に起こした罪の償いなのだろうかと思い悩むこともある」(28P)本の中でもあったように思いましたが、「なぜ、あの日にかぎって…」「水をほしいと言っていたのに、あげることができなかった…」「あの子はいったいどこでどのように死んだのか…」さまざまな感情が遺族には生まれ、心の深い傷となります。それは、容易に癒されることのない傷です。そして、著者にとっての、級友たちの「突然の死」。いったいどんな“Grief”が、かぶさってきたのだろうか、そんなことを考えました。話はまた変わりますが、自衛隊の田母神元幕僚長が、8月6日に広島に来て「広島の平和を疑う」という講演をしたそうです。その後も、平和式典に出席している被爆者・遺族にたいして、侮辱的な発言をしています。『デス・スタディ』には、こんな指摘も書かれています。「死によって生じた傷あとは、容易にいやされるものではない。そしてその傷は、周囲の人たちの心ない言葉や態度で大きく広がっていく。死別を経験した人たちは、心ばかりでなく、身体を病むことが多い。人の悲しみに対し、私たちはもっと謙虚であらねばならないような気がする」(128p)「死は残された者にとって、その死をとり込んだ新しい生のはじまりのときでもある。一生とり去ることのできない悲しみを背負いながら生きていかなければならないのだが、悲しみのなかには、看取りや死別後、他の人から投げかけられた心ない言葉によって増幅されているものもあるのだ」(282P)田母神さんは、自分の言葉が、被爆者の悲しみを増幅させ、その傷を深くさせている、ということに、想像力がまったく働いていません。言葉による暴力とは、このことです。(そういう人に限って、「言論の自由」という言葉をよく使います)痛みへの想像力。人の悲しみへの謙虚さ。人として失いたくないものです。
今日(7日)の午前中は、ソワニエ看護専門学校での、14回目の講義。ラスト1回です!今日は、「日本国憲法から考える看護論②」ということで、日本の戦争の話、戦争では、命がどう扱われるのか、戦争への想像力、日本国憲法の言葉にある背景、などについて話をしました。日本の戦争の加害の歴史、日本軍の兵士の証言なども紹介しましたが、学生さんにはかなりショッキングだったようです。が、ショックを受けていい、と思います。そして、戦争への想像力を働かせてほしい、と思います。あと、やっぱり学校教育での近現代史教育の不十分さを痛感します。歴史教育の空白時代です。以下、講義の概要ですが、以前にも話をしたような話が多いです。省略しながら紹介します。一。長久の「看護・医療」読書日記 ◇今週読んだ本 『死ぬのは、こわい?』(徳永進、理論社、2005年) 『死の中の笑み』(徳永進、ゆるみ出版、1982年)二。命の目方が狂う-戦争は「生命」をどう扱うのか 1。日本の戦争 ◇1931年~1945年までの日本の戦争(資料参照) *アジア・太平洋戦争(または「15年戦争」)という *アジアで奪われた命…2000万人以上 (1人ひとり、名前を読みあげるとしたら、どれぐらい時間がかかるか) *日本で奪われた命…310万人(うち民間人80万人) 2。命への想像力 ◇殺した命ー日本軍兵士の証言から(資料参照) *「同じ人間だ」と思ったら、人は殺せない *「人を殺せる」ようにするのが軍隊教育-米海兵隊の訓練の話 ◇兵士の命の重さ
(省略) ◇殺された命ー1945年8月6日、広島で(資料参照) (省略) *私たちは戦争を体験はしていない。しかし、それを想像する力を持っている 「忘れてはならないのは、一瞬にして奪われた生命の周辺には、その 直前までその人の生活があり仕事があり家族がいたということである。 焼けこげたり、爆風にとばされたり、瓦礫の下敷きになって、言葉を失 い、心臓の鼓動もなくなってしまった人を、ただ死者として悼むだけで はなく、一人ひとりの人生や生活の背景に思いを馳せる想像力を失っ てはならないと思う。 個々の暮らしの態様は違っても、人間として生きていく日々は、ささ やかな喜怒哀楽や、親子、夫婦、友人をはじめ人間と人間のつながり に支えられている。死者○○人というその一人ひとりの生活への想像 力を失うまい。 (中略)それまでのふつうの暮らしや思いを一瞬にして奪い尽くしてし まう不条理な戦争は、豊かな想像力で防ぐことができるのではないだ ろうか」 (『凛として看護』久松シソノ著・川島みどり編、春秋社、2005年) 「苦しみもだえながら、つぎつぎと人が亡くなっていきます。その死を見 守りながら、あらためて原爆がいかに残酷なものであるかを知らされま した。 (中略)それにしても、傍らに付き添いながらなにもできない無力感、あ のむごたらしさ、惨めさ、悔しさは、看護婦として耐えられないことで、 思い出すだけで、今も胸がうずくのです」(前掲書)三。日本国憲法前文の言葉の意味を考える-看護師として
(省略)以上。
きょう(5日)は、岡山県労働組合会議の第21回定期大会に本を売りに出かけました。 大会も、最初から最後まで 傍聴させていただきました。 やはり話題・議論で多かったのは、 総選挙の結果について。 労働運動の果たす役割は大きいです。 新しい議長に、学習協の副会長もしていた だいている、花田さんが選任されました新岡山書籍のI木さんと一緒に本を並べ、学習の友社の本は5冊売れました。ありがとうございました明日は医労連の大会に行こうと思っていたのですが、急きょ予定変更。行けれません。あいすいません。
きのう(4日)は、生協労組の学習会が午前中と晩にありました。10時半から、コープ山陽で、パート部会の新入組合員研修会。 参加は15名ほどでした。 「労働組合とは」という話を 1時間ほど。19時からは、岡山駅西口のオルガ会館で新分会長研修会。 こちらは20名ほどの参加でした。 労働者を取りまく状況をふまえながら、 労働組合と分会長の役割を語りました。 約50分ほど。どちらの学習会でも、冒頭、総選挙の結果とその意義について語ってみました。ホットな話題だけに、みなさん関心が強いようでした。それにしても、講師活動をやらせていただいてきたなかで、こんなに政治を語るのが楽しいという感覚をもちながら話をするのは初めてです。まったく楽しい情勢です(楽観的すぎ?)。
きのう(3日)の夜は、78期岡山労働学校「核ZERO」教室(10/1開校)のプレ企画がありました。総選挙で開催が1週間延期になったうえ、参加の呼びかけも選挙が終わってからという、とても不十分な取り組みになってしまいましたが、それでも青年を中心に17名が参加し、学習と交流を深めました冒頭、「78期労働学校の内容と意義」ということで、私が20分ほど話をしました。核廃絶をめぐる新しい情勢の変化、78期の学びのスタンスについて、ポイントをしぼってお話しました。 つづいて、ドキュメンタリー番組、 「解かれた封印~米軍カメラマンが 見たNAGASAKI~」 を見ました(約50分) (内容は→こちら) 私も見直してみて、 やはり感動と確信の中身でした。 その後、3つのグループに わかれての感想交流。 どこのグループも話がつきない ようでありました。ドキュメンタリーの内容が良かっただけに、78期への意欲もそれぞれ高まっていたように思います。感想文で「全部参加します!」と書いていた人も。おお!すでに皆勤宣言ですか。最後に、78期の受講の訴えが運営委員からありました。そして、きのう受講申込みが新たに3名!募集目標は前期の24名を越えることです(控えめ)。開校まであと1か月…!では、参加者の感想の一部です。「はじめてこのドキュメンタリーを見ました。ジョー・オダネルさんの撮影した写真にはとても衝撃を受けました。…被爆者1人1人のバックボーンを見ることが大事だと思った」「アメリカの人々の中に原爆投下の正当性を信じて疑わない人がいるとドキュメンタリーにあった。それを見て腹が立ったが、どうして彼らがそう思うのか、想像力を働かせる必要がある」「また新しい切り口で原爆被害の実情を知り、考えさせられました。オダネルさんも言っていた、『人間が人間に対してこんな恐ろしいことをした』という言葉に、アメリカ人も日本人も関係ない、原爆の被害はそんなレベルを超えているという思いになったぐらい、深刻だったというのを改めて考えさせられた。…オダネルさん親子の勇気に感動した」「『原爆が必然だった』という意見がメジャーのアメリカでも、事実を知ることで変化が起きるということが分かりました。今の風潮に負けずに訴え続けることが求められていると思います」「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下が正しかったっていう見解がアメリカでは相当だなぁと感じ、でもそれって(息子さんも言ってたけど)ちゃんとリアルに人間に起ったこと、リアルに生き方や生活にどんな影響を与えたのかっていうことを実感できてないからだろって私も思います。だからこそ伝えていかなきゃいけないと思うし、伝えれば広がっていくって私も信じたいです」終了後は、労働学校恒例の「なごみ」に・・・。 私ふくめ、11名が参加。 終始なごやか、爆笑、盛況。 すでに開校前にこの雰囲気って スゴイなと。 78期、とても楽しみです。
きのう(2日)は、久しぶりに早く家に帰った。夕暮れどきであった。そして、これまた久しぶりに、ウォーキングでもしようと思い立つ。いい時間帯なので、何かステキな絵が撮れるかもと、カメラを携帯する。 まずは、 南岡山医療センターから、 西の空を眺めるの図。 こういう空を 見ているだけで、 感動するのである。 カラスが 飛んできた。 早島の工業団地 付近にて。 もちろん、 「かあ」「かあ」と 鳴いていた。 なにやら、 カラスはどこかへ 集結している様子であった。 数が恐ろしく増えていく。 太陽は 静かに沈んでいく。 というか、 地球が 回っているんだけど。 とある 工場の屋根の上に、 カラスが集っていた。 カラスって、 こんな集団行動を するんだなぁと 感心した。 万国のカラスよ、 団結せよ!! 何百羽が 一斉に飛んでいる 風景に、 しばし圧倒される。 数こそ力! (なんのこっちゃ) カラスにおおわれた 夕暮れの空。ということで、写真をとりながら、約50分間のウォーキングでした。
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