8月8日(日)のつづき。
平和集会を終え、車をとめていたほうらい館まで
もどり、買い物をすませ、出発。
次の目的地は、徳之島町の「なごみの岬公園」。
ここに、なごみの碑、というものがあります。
沖縄の摩文仁の丘に雰囲気が似ていました。
「平和の礎(いしじ)」のように、1人ひとりの名前が刻まれていました。
さらに奥へ。
1944年の6月29日に、沖縄戦に向けての兵員を乗せた
「富山丸」が、亀徳港沖で、米軍潜水艦の魚雷で沈没しました。
徳之島の住民による必至の救護活動にも関わらず、
3700人以上の犠牲者が出ました。
ここにも、無謀な輸送作戦による、戦争の悲劇がありました。
富山丸は、こんな船だったようです。
この沖合いで、富山丸は今も海中に沈んでいるのでしょうか。
この「なごみの岬」に来て、あらためて気づきました。
それは、徳之島には、あの戦争の悲しい記憶を伝えるものが、
たくさんあるな、ということ。
戦艦大和の慰霊碑、奉安殿に残った銃弾のあと、
特攻隊慰霊碑、そしてこの富山丸の碑。
地理的には、沖縄にとても近く、沖縄戦と無関係ではなかった徳之島。
沖縄への1944年10月10日の大空襲はわりと知られていますが、
同じ日に、ここ徳之島でも、米軍の激しい空襲を受けています。
そして、沖縄戦へと向った、大和、特攻隊、富山丸。
こうした戦争の記憶を各地に刻んでいる徳之島だからこそ、
「平和への希求」という島の人びとの強固な思いがあるのではないか、
だからこそ、基地移設反対のエネルギーに、それが瞬時に転化して
いったのではないか。そんなことに気づいたわけであります。
おそらく、学校などでの平和教育も、沖縄と徳之島の戦争の
歴史について、しっかり学びあいがあるのだと思います。
さて、なごみの岬をあとにし、
売店でビールと卵おにぎりと、奄美新聞を買い、
民宿へ帰りました。12時30分頃着。
まあ、ビールというか、正確には発泡酒ですけど。
くいっと一杯。
民宿での朝食と夕食の量が多いので、これで昼食は十分。
部屋の外では、
ときおり大粒の
はげしい雨。
そんななか、この日の
午後は、2日前に買った
葉書を書く時間にあてる。
かりかりかりと書いていく。
自分の字のキタナサに、
あらためて絶望しながら。
字がうまくなりたい!
今からでも遅くない!?
まあ、夕食までに、買った葉書30枚のうち、
20枚ぐらいは書けました。
眠くなって、昼寝。
部屋で、この日買った、地元紙『奄美新聞』を読んでみる。
きのうの夕方から始まった「タスキリレー」が一面トップ。
地方紙はえらい。こういうのがちゃんと1面にくるんだから。
19時から夕食。
そういえば、私の他に、民宿にきのうから泊まっていた
ワカモノが1人いた。
話をしてみると、琉球大学の院生さんで、
なんでも「蚊の研究」をしているとのこと。
奄美大島と徳之島にしかいない蚊がいるそうで、
それを捕獲し、生態を研究しているんだとか。
「何か医療とかに役立てる目的?」と聞いたら、
そうではなく、純粋に生態を調べる研究だそう。
琉球大学に「蚊の研究」の第一人者の教授がいるそうです。
世の中には、いろんな研究があるもんですなー。
20時から、日曜日夜の恒例、『龍馬伝』をみる。
薩長同盟の話ですな。
引き続き、葉書書きも。
疲れて、就寝。
つづく。
あきやんさん、ほんとーに詳しいですね。すごい。
富山丸の惨状が少しだけ想像できました。恐ろしい光景が。
9月の沖縄旅、ぜひ充実したものに!
私も9月に相方と宮古に行きます!
投稿情報: 長久 | 2010年8 月27日 (金) 06:54
富山丸の碑もあるのですね。
富山丸は戦没輸送船での犠牲者数が第3位。
沖縄に向かう,独混44・45旅団の主力が海没。
かなり,詳しい資料が残されています。
日本軍の輸送船での海没戦死者数は,世界戦史のなかでも異常です。
貨物船を輸送船として徴用し,兵員を詰め込んだため,兵員は船内に閉じ込められたまま海没しています。
富山丸の場合,わずか2分でY字に折れて多くの兵員を船内に閉じ込めたまま沈没。海上に逃れた兵員も,積荷のガソリンに火がつき,海上あたり一面火の海となり,焼き殺されてしまいます。
徳之島の人たちも,火がおさまる2時間後まで救助に向かえなかったそうです。
大火傷で救助された兵員は約400人。
犠牲者数は,3695名~3874名まで諸説ありますが,いずれにせよ,恐ろしい数字です。
9月18日にマルエーフェリーで沖縄に向かいます。
航路から見ると,この水域も通過するはずです。
船上から合掌してきます。
投稿情報: あきやん | 2010年8 月26日 (木) 21:16