たぶん、書いていくと、いろいろまた考えの整理や
発展があるので、何回かに分けて、
「高まりあいの運動文化を」のテーマでつづっていきたいと思う。
この「高まりあい」という言葉がイメージする学習教育実践を、
強く意識しはじめたのは、今年に入ってからだと思う。
もちろん、これまでの学習運動の実践のなかで、
集団で学ぶことの意味や重要性などは強く実感していたし、
あれこれ方法論も模索していたことはあると思う。
ただ、今年に入って、
「聴く・聴かれる関係性による、高まりあい」
ということと、
「書くこと・書きあうことによっての高まりあい」
ということを、
はっきりと問題意識として持つようになった。
正直いって、学習運動も、労働運動も、
わがほう政党の学習教育活動も、
「何を教えるか」「何を学ぶことが大切か」ということに、
問題意識が集中してしまっているように思う。
どんな対象に、どんな教育内容を提供していくのかは、
もちろん重要な課題で、より探求が必要だと思う。
同時に、私たちは集団で活動しているわけだから、
その集団のなかで、どう高まりあう運動文化を
構築していくのか、ということも、もっと探求されてよいと思う。
「聴くこと」については、『学習の友』の5月号にも
書かせてもらったので、自分自身のなかで一定整理がついた。
今回は、「書くこと」について深め、整理したいと思う。
言うまでもないが、人間は、「言葉」なしには成長できない。
言葉で分析し、認識を深め、実践の指針にし、創造性を発揮する。
その「言葉」を扱う営みは、ざっぱくに整理して、
「話す」「読む」「考える」「聴く」「書く」という感じだろう。
このなかで、もっともハードルが高く、難しさをもち、
エネルギーを費やすのは、
なんだろうと考えたら、一般的にいえば、
やっぱり「書くこと」だろうと思う。
じっさい、たとえば学習協の会報の原稿依頼をするときなども、
「書くことは苦手だから」などの理由で、
なかなか原稿依頼を受けてくれないことが、ままある。
「話すこと」「読むこと」はできても、「書くことは…」という人が多いのである。
「書くことが好き」という人は、やはり少ないと思う。
しかし、自分自身がぐんぐんと成長するために、
また集団としての高まりあいをつくるためにも、
「書くこと」はどうしても不可欠、だと思う。
なぜだろうか。
次回は、「書く」ことそのものの意味について、考えてみたい。
<たぶん次回以降、こんな感じになるかな・・・直感で>
(2)「書く」ことの意味について
(3)生活綴り方教育実践から学んだこと
(4)さっそく実践してみての気づきや整理
(5)「書きあう」ことで「高まりあう」運動文化の構築を
「何を教えるか」「何を学ぶことが大切か」・・・ありますね〜・・・
投稿情報: 書記長 | 2010年10 月 7日 (木) 05:09