「書く」ことの意味、についてである。
といっても、書く内容や目的によってさまざまな意味がある。
大前提として、「書くことは考えること」である。
マルクスは、書きながら考え、考えながら書くことを習慣としていたそうだ。
書くことは、思考の飛躍をもたらす。
そのことを押さえたうえで、さらに「書くことの意味」について考えていきたい。
ここではまず、明治大学の人気教授・齋藤孝さんの、
『原稿用紙10枚を書く力』(大和書房)から、引用したい。
書くことの意味について、とてもわかりやすく述べられている。
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「書く」ことの基本的機能は、体験の意味、経験の意味を
あきらかにすることである。体験の意味や経験の意味をあき
らかにするために、スローモーションフィルムを回すように、
言葉によって体験を定着させるのである。
書き言葉はその定着力にその特徴がある。体験は、その
ままにして放っておけば、流れ去ってしまう。それを言葉に
することによって、後で読み返せる形にして、そのときの心の
状態をつかみとることができるようにするのだ。
話された言葉がその瞬間に消えていくのに対して、書かれ
た言葉は定着し、時間を超えて残る。それが書き言葉の威
力である。文字の永遠性を活用して、不安定なものをその
都度確定していき、経験の意味を残すところに、書くことの
基本的機能があるのだ。 (39~40P)
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そう、「書く」ことのまずもって最大の特徴は、
「話す」「読む」「聴く」「考える」とちがって、「言葉が残る」ということ。
体験したこと、経験の意味を考え、「書き残す」ことができる。
そのことによる、定着化。
身近にその威力を実感する例はたくさんある。
たとえば、岡山県学習協は、前の専従者の時代から、
基本的に毎月、十数ページ~二十ページほどの会報をつくって、発行している。
そのことによって、そのとき、そのときの、
運動・実践経験・問題意識・課題などが、
基本的に会報という形で、文字で「ふりかえる」ことができる。
これは、非常にありがたい。
ちょっと昔の会報をひもとくだけで、いろいろな考えや
アイディア、問題意識が浮かんでくる。
教訓がぎゅっとつまっているのである。
また、「書くこと」は、自分の経験や実践を整理し、
その意味を深め、自分自身で確かめる行為なので、
より自分自身のなかに「残る」という大きな役割も果たす。
だから、私はいつも言っていることだけれども、
学習会では必ず参加者に感想文を書いてもらうこと。最低条件である。
感想文を書かせない学習会は、いったいどうやってその成果を
判断するのだろうか。参加者の成長をほんとうに求めているのだろうか。
自分が何を学んだか、何がわからなかったか、何が新しい発見だったか、
その人自身が、学習会をふりかえり、頭を整理し、文字として「書く」。
そして可能なかぎり、その感想文を、ニュースや機関紙に載せて、
「みんなのものにする」。学習会は、その瞬間も大事だが、
講義などを受けたあとの「深める」「共有する」ということの重要性は、
強調しすぎてもしすぎることはない。ここに心くばりをする必要がある。
また、ある人が集会などに参加したら、その経験を必ず書いてもらう。
それは労働組合運動などでも、とくに大事になってくる。
どんなにすばらしい学習会や集会を行っても、
「書き残す」行為がなければ、それはすぐに流れさってしまう。
「書く」ことは、運動の定着化、経験の深め合い・共有化への
必須条件である。
さて、このようなことから、「書くこと」のもうひとつ大きな意味が確認できる。
わかりやすくいえば、「文字が残る」ということによって、
言葉が自分の身体から離れ、客観性をもつようになる、ということだ。
つまり、「他人に読まれる」ということ。
「書く」ことは、公共性を強くもつ行為といえる。
書くことによって、「みんなでそれを共有する」ことが可能になる。
したがって、「書きあう」ことによって、集団の高めあいを起こすことができる。
次回は、その「書くことによっての集団の高めあい」の
教育実践、「生活綴方教育」から学んだことについて書きたい。
書記長さんいつもお世話になっています☆
「書く」ことを、労働運動の文化にしていくために、
しつこく大事さを強調していこうと思っています!
投稿情報: 長久 | 2010年10 月 7日 (木) 10:57
このブログのコメントも、「他人に読まれる」ことを意識しながら書いています(笑)
投稿情報: 書記長 | 2010年10 月 7日 (木) 05:13