学びの課題として、宮本百合子さんの、
『若き知性に』(新日本新書、1972年)の、
「ものわかりよさ」と「自信のあるなし」を
読んでもらって、感想レポート提出。
さらに会議で感想を出しあって深めました。
その議論がとても面白かったので、
「ものわかりよさ」に焦点をあてて、ご紹介していきたいと思います。
議論に参加できたのが、
運営委員の女子3人(いずれも20代)でしたので、
彼女たちの感想もあわせて紹介します。
なんと、この文章、1940年執筆ということですので、
70年も前のもの。
でも、いまの若い人の心を
わしづかみする力を持っていることを、実感させてくれました。
以下、ポイントになるところを引用しますね。
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昔から女に求められている日常の美徳の一つに、
ものわかりのよさ、ということがある。(略)やきもちを
やかないこと、そしてものわかりのよいこと。その二つ
が身に備わっているとなれば、賢い女のうちに入れる
ことはまぎれもなかった。
女にものわかりのよさのもとめられたのは、昔だけ
のことだろうか。男の世界によい意味でも目の上の
瘤(こぶ)にならないように、わるい意味でも邪魔っけ
にならないように、女のものわかりよさが求められた
のは、昔ばかりのことだろうか。
ぐるりと生活を見わたすと、今日でもやはり、女に
向かってこの同じものわかりよさが何かにつけもち
出されていると思う。君はわからない女だ、という
言葉の内容は、君はわからない男だというと同じ
内容ではいわれていないのが実際だと思う。
しずかに考えてみると、ものわかりのいいという
ことと、ものの理解が正しくて深いということはまっ
たくべつである。
だいたいに、ものわかりのよさの本質は、発見の
精神ではなくて適応の精神であり、創造の感情
ではなくて、従属の感情である。ものわかりよさは、
高い人間の明知とはちがった性質のものである。
一方に深い質問をいだいてそれを追究して新しい
何かの価値を人生にもたらしてくるような、そういう
建設の意力を、ものわかりよさはもっていない。
ものわかりよさは、いつでも現在その人の生活する
世間で通用している型どおりのものの上手なとり
あわせを心得ているということである。
若い女性の成長にとっては、ものわかりよさが
遙(はる)かに複雑な陰影(いんえい)をなげると
思う。それこそは青春のかえがたい贈物である
知識欲や成長への欲望、よりよい生活へ憧れる
みずみずしい心の動きは、現実にぶつかって一つ
一つとその強さを試みられているわけだが、その
現実は、青春の思いや人間の成長をねがう善意
に対して、何と荒っぽい容赦ない体当たりをしば
しばくらわせることだろう。
ものわかりよさの陰影は、こういう瞬間に女の
心にさしこんでくる。私が人生にもとめているのは
わがままなのだろうか。そういう謙遜の表現で、
忍びこんでくる。人間につまり大切なのは、仕事の
上の野心だろうか、つつましい日常の愛だろうか、
そのように現実をはなれた観念の上での対比を
もとって現われてくる。はたして私にはそれだけの
摩擦にたえるだけの、たえてゆくだけの才能が
あるかしら、そういう否定に立った問いかけもきこ
えてくる。
これらのさまざまの声々の底には、女という
ものはしかじか、女の幸福はしかじか、という
定型へのものわかりよさ、困難をさけようとする
ときのおのずからなるものわかりよさが、作用
しているのである。
愛すべき若い人生のどのくらいの部分が、この
悲しいものわかりよさをのりこえて自身の成長の
歴史をつくってゆくだろう。
現実を知るということ、また大人になったという
ことを、このものわかりよさに屈服した内容で
いうひとの多いことを、私たちはまじめにとりあげ
なければならないと思う。
若さを喪失することにある悪は、フランスの
貴族的な女詩人アダム・ノアイュが詠嘆(えい
たん)したような哲学的な哀愁ではなくて、きわ
めて現実に人間の善意に対して無反応になっ
たり、嘲笑的になったりすることである。
どうせこんなものといってしまえば、その人が
この人生に存在する意味さえも失われる。どう
せこんなもの、という投げかたは、人生に対する
一番傲慢(ごうまん)な卑屈さであると思う。
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で、女子3人の感想レポートを紹介。
「ものわかりの良さの本質は、発見の精神ではなくて
適応の精神である、という文章が心にストンと落ちま
した。たしかに社会を生きていく上で全く必要のない
能力ではないと思うけど、それだけで生きていくのは
つまらない。いつも何かに疑問をもって、学んでいく
姿勢は大事なことだなと感じました。その姿勢がどん
なに見苦しくて、かっこ悪くても、ずっとジタバタもが
いて生きて行って良いんだなと思わせてくれる、かっ
こいい文章だと思いました」
「この文は70年以上前のものだが、現在の私たちの
学びにも十分通じる。男女共学になり、当時よりは
(建前上は)男女平等になったようにみえるが、女性に
より『ものわかりのよさ』を求められる傾向、従順さを
求められる傾向は、決してなくなったとは言えないの
ではないか。特に、女性が働くうえで家庭と両立しづ
らい社会であることは今も変わっていない。
世の中とはこういうものだ、ということを知り、それを
受け入れ、それに従いながら生きていく。かつて私は、
大人になるとは、そういうものだと思っていたし、そう
ならなければいけないのではないか、と思っていた。
しかし、そういった考えには、変化も成長もないし、
希望もみえない。大人になってしまったら、もう成長
することはないのではないかと思っていた。しかし、
ものの見方を学ぶことで視野が広がり、成長すること
ができた。二十歳を過ぎて、社会に出て、そのあとも
成長できることなど思いもしなかったが、『変えられる、
成長できる』と思える生き方の方が楽しいし、いきいき
してくる。
私たちは『学びたい! 自分の頭でしっかり考えて、
自分の意見を持ち、成長したい!』という気持ちを
持っている。それに応えられるような社会になって
ほしいし、していかなければならない。心からそう思う」
「百合子さんは、とっても新鮮な目で、ものを見続けた
人なんだろうなぁと思いました。私の祖母世代ですが、
もし、現在の社会で出会えたとしても・・・『お姉さん
みたい』な会話を若い人とできたのではないかしら。
『おかしくない』『許せないな』『なんかもやもやする』
ようなことは、学校でも、社会でも、仲間の中でも、大人
とかかわる中でも、成長の過程で、若い人は必ずそんな
出来事にたくさんぶつかる。
でも、その思いを持ち続けるのって、存外、労力を要
することだと思います。『世の中こんなもの』『人間って
ここまでのもの』と、『ものわかりのよさ』を発揮して、
こなしてしまうほうが、楽だし、世間から見れば『賢い』
『大人になる』ということなのかも知れません。
実際に、私も、いろんな場面で『もやもや』した自分の
感受性を捨てて、ものわかりのいい人間になっていました。
百合子さんは、『青春の賜物』への試練を、どうのり
こえていったのだろう。世間の声や、メディアの目・耳、
他人の評価ではなく、常に常に、目の前の新しい現実を
自分の感性で、ぐいと、捉えようと生きていたのではない
だろうか。
今から70年も前に考えられた、男女論や結婚観、生
理休暇(という発想をもっていることにもびっくり)への
百合子さんの見方が、今の時代に生きる私でも
『ふーむ!』と、職場の先輩の話を聞いている感覚で
読めてしまうのは、時代や性別の制約に負けない、
自由で新鮮なものの見方を身につけていたからなんだ
ろうなぁ。
『よごれたものわかりのよさ』という言葉に、どきっと
しました。『どうせこんなものといってしまえば、その人が
この人生に存在する意味さえも失われる。どうせこんな
もの、という投げかたは、人生に対する一番傲慢な卑屈
さであると思う』という一文には、はっとさせられました。
本当に『ものがわかる』ということは、『どうせこんな
もの』とは全然違うことですよね。ときには敗北の経験も
してしまうと思うけれど、周りの『ものわかりの悪い人
たち』の力もかりて、自分が本当にわかりたいこと、
自分の感性を大事にする人生がいいなって思いました。
『ものわかり』が女性に使われるときの特殊さとか、
男性の職業婦人への態度とか、鋭くって、とってもおも
しろかったです。百合子さんのファンになってしまいますね。
女子も、男子ももっと百合子さんを読まねば」
まあ、議論のスタートからして、
A子さんの「百合子すごい~!」という大発声から始まり(笑)、
いろいろな体験談も交えながら、おもしろく議論がすすみました。
百合子さんの文章の明確さ、鋭敏さに、
みなさん脱帽していたようであります。
「百合子を読む会したーい」という声も。すごいね、百合子は。
「ものわかりのよさ」という視角でみると、
たとえば、
日本航空の整理解雇で首をきられ、いま裁判闘争を
たたかっているパイロットや客室乗務員の方々は、
世間で通用している考え方とは反対の、
最高に「ものわかりの悪い」人たち、ということになります。
でも、百合子さんの言葉をかりるなら、
「悲しいものわかりよさをのりこえて自身の成長の
歴史をつくってゆく」、最高にみずみずしい輝きを
はなっている人たちだと、私は思うのですが。
その生き方こそ、きっと後輩たちに受けつがれていく「贈物」です。
そういう生き方は当然、
「現実にぶつかって一つ一つとその強さを試みられている
わけだが、その現実は、青春の思いや人間の成長をねがう
善意に対して、何と荒っぽい容赦ない体当たりをしばしば
くらわせることだろう」
という“試練”も待ちかまえているわけです。
でも、躍動的で魅力的な「ものわかりの悪さ」を育て、
学びの力と仲間集団の力で現実を変えようと
努力しているときに、わたしたちは、
“青春のかえがたい贈物”をいつまでも手放さずにいる
ことができるのではないでしょうか。
そんなことも、あれこれ考えさせてくれた、
百合子さんの文章でした。
百合子さんの文章はかなり切れ味がいいので、グサグサきますよ☆
投稿情報: 長久 | 2011年2 月22日 (火) 09:32
この間A子ちゃんが大絶賛しててどんな人なのか気になりましたー(゜o゜)☆
ぜひ学習会いきたいー*
投稿情報: みき | 2011年2 月21日 (月) 20:41