8月6日。
久しぶりに峠三吉の『原爆詩集』をパラパラと
めくってみた。
「序」はあまりに有名である。
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ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
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「ふるさとをかえせ」
「そらをかえせ」
「つちをかえせ」
「うみをかえせ」
「まちをかえせ」
「にんげんのいとなみをかえせ」
原発事故は、ふたたび、
この叫びを上げざるをえない状況を
つくりだしてしまった。
この「にんげんをかえせ」の言葉は、
こんにち、ある意味残酷な形での広がりと、
強い憤りをもって、
私たちの胸をとらえるものになっているように思う。
もうひとつ、
私が、被爆の実相を講義などする場合に、
必ず紹介しているのが、
「仮繃帯所にて」という詩である。
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あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
絲のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥かしいところさえはじることをできなくさせられた
あなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を
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最初にこの詩を読んだとき、
「にんげんから遠いものにされはててしまって」
という言葉に、私は衝撃をうけた。
そうだ、原爆の恐ろしさは、
まさに1人ひとりの人間から、人間を奪うことにあるんだと。
だからこそ、
「にんげん」を取りもどす「たたかい」が必要なのだと。
今からちょうど60年前の1952年に書かれた
「あとがき」の最後に、峠三吉は、
激しい怒りをもって、こう書いている。
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尚つけ加えておきたいことは、私が唯このように
平和へのねがいを詩にうたっているというだけの
事で、いかに人間としての基本的な自由まで奪
われねばならぬ如く時代が逆行しつつあるかと
いうことである。私はこのような文学活動によって
生活の機会を殆ど無くされている事は勿論、有形
無形の圧迫を絶えず加えられており、それはます
ます増大しつつある状態である。この事は日本の
政治的現状が、いかに人民の意思を無視して
再び戦争へと曳きずられつつあるかということの
何よりの証明にほかならない。
又私はいっておきたい。こうした私に対する圧迫
を推進しつつある人々は全く人間のそのものに
敵対する行動をとっているものだということを。
この詩集はすべての人間を愛する人たちへの
贈り物であると共に、そうした人々への警告の
書でもある。
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峠は、「にんげん」にこだわった。
「にんげん」へのかぎりない慈しみと、
それを壊そうとするものへの激しい怒り。
峠三吉の言葉は、
60年後の私たちに、
強い励ましと鼓舞をあたえ続けている。
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