後半です。
3日目を中心に。
【1月14日(月)】
この日は、ウンジャーガマというところから。
住民の避難壕で、日本軍兵士による追い出しが
行われたあと、第24師団第2野戦病院になったそう。
畑から先へ行くと、大きなガマがありました。
あきやん師匠が、ここで起きたことを
詳細に教えてくれます。
とにかく、南部にくると、軍民混在で、
もう兵士の規律や統率もむちゃくちゃだし、
こうした避難壕では、たくさんの悲劇が起きたのです。
壕のなかから外を撮ってみる。
つづいては、東辺名ワイトイの壕へ。
「第9師団が台湾に移動する前に構築した陣地壕と思われる。
その後第24師団歩兵第32連隊第2大隊がこのあたりに配備
されている。日本軍の南部撤退後は、第62師団司令部と
独立歩兵第13大隊が予備として配置されたが、師団司令部、
第13大隊とも東部へ移動。6月20日ころ前線が崩壊し、
諸部隊がバラバラになってこのあたりの兵陵においつめられ
てきた」(あきやん師匠メモ)
崩落による埋没が多いので、
あまり奥には入れませんでした。
米軍の馬乗り攻撃で崩落した現場。
あきやん師匠、いつものように道なき道をすすむ。
ジャングルでした。
日本軍の手榴弾や砲弾などがずっと放置されている。
遺骨収集などでよく出るそうなのですが、
基本は行政などに届け出ないといけないそうですが、
めんどうくさいので、そのまま放置する場合も多いとか。
日本軍の手榴弾。
これで、どれだけの命が失われたのでしょうか・・・。
魂魄の塔にも寄りました。
身元がわからない何万という遺骨が納められていた場所です。
魂魄の塔の近くに、こんな自決の壕が。
ちょっとここから降りるのは無理な壕でした。
つぎは、米須の壕へ。
「ナゲーラ壕から南部へ撤退した第62師団野戦病院が
入ったガマ。内部は日本兵、ヒナン住民でいっぱいで、
野戦病院の全員が入りきらず近くの壕にも分散した。
6月19日に野戦病院に解散命令が出る。多くの日本兵、
避難民、女子学徒などが中に残っていたが、6月23日に
米軍の馬乗り攻撃を受ける。東の入口から火炎放射と
機関銃で攻撃、西の入口から黄燐弾または火をつけた
ドラム缶が投げ込まれた」(あきやん師匠メモ)
こういう状況なので、なかは地獄の様相で、
手榴弾による自決も相次いだ壕です。
あきやん師匠を先頭に入っていく。
ここの壕は泥がひどく、入れる状況のときと無理なときが
あるそうです。この日は何とか少しは入れそうな状況でした。
泥に激しく足をとられる谷口さん。
さらに奥へ!
いや、この壕は、かなりシンドかったですね。
泥がすごく、転んだら全身泥だらけになるという緊張感。
疲れました。
結局あまり奥にはすすめず、
壕をあとにしました。
つづいて、とある病院裏の陣地跡へ。
藪のなかを行くみたい。
でもこの程度はもう慣れっこになってました。
はい、道がなくても大丈夫ですよ。
日本兵がおいつめられて、急ごしらえでつくった陣地跡。
といっても、石を積み上げただけのもので、
「こんな状態で最後は米軍とたたかった」日本軍兵士の
恐怖も考えました。
つづいては、大渡の壕。
日本軍の陣地壕で、南部の海岸を見渡せる斜面につくられていて、
高射砲大隊本部もあったそうです。
とあるレストラン近くのわき道から降りていきます。
ここも、道なき道をしばらくすすんでいくと下のような穴が開いてました。
ここから、海岸に向けて砲弾を向けていたのだと思われます。
崩落がひどく、危険なのでさすがのあきやん師匠も
中には入らず。
ここから海岸線をみると、たしかに映画「硫黄島の手紙」で
でてきたような図になりました。
米軍はここからの上陸の可能性もありましたからね。
昼食後、ひめゆり資料館すぐ隣にある、
梯梧の塔へ。
私学昭和高等女学校の慰霊碑です。
女子学徒隊で、多くの学徒が亡くなっています。
私学だったため、戦後、学校はなくなったそうです。
沖縄戦の学習といえば、「ひめゆり」があまりにも有名で、
立派な資料館もあって、観光客も行く場所になっています。
ただ、「ひめゆり」ばかりが目立って、
他の学徒隊のことは、ほとんど知られていません。
この梯梧の塔も、ほとんど訪れる人がいません。
ひめゆり資料館から目と鼻の先なんですけどね。
今回、ひめゆり資料館には入りませんでしたが
(入れる格好もしていなかったし)、
資料館の敷地内に「赤心の塔」というのがあるよと
教えてもらい、見に行くことに。
資料館入口の近くに、小さく、ひっそりと建っていました。
じつは、ひめゆり資料館の前にある
「第3外科壕」は、もともと大田さんという地元の
住民の方の敷地内で、
そこには大田さんご家族が隠れて非難していたそうです。
大田さんご家族の名前が碑の裏に刻まれていました。
それで、南部撤退のさいに、
やはりこの大田さんの壕も、日本軍が使用するということで
追い出され、近くの壕に避難せざるをえなかったそうです。
説明版には、「第3外科壕に入っていた民間人」とありますが、
もともと大田さんの家の壕だったのを、日本軍が奪ったわけです。
で、その後、ひめゆり部隊が南風原の野戦病院撤退後、
この壕に入ってくるわけです。
そうした経過など、これまでまったく知りませんでした。
そして、ひめゆりに訪れる人が誰も見向きもしない塔であり、
複雑な思いをもたざるをえませんでした。
さて、この日最後に訪れたのは、
摩文仁海岸。
日本軍、住民、学徒が最後の最後に追い詰められた場所です。
健児の塔へ行く道から。
途中、水がたまっている場所が。
こうした水場は、水を汲みにくる人間が、米兵の攻撃にあい、
たくさん死んだ場所でもあります。
いよいよ摩文仁海岸へ。
けっこう急な坂道を下っていきました。
出ました。
海はもちろん、きれいです。
石灰岩質の岩がごろごろと。
私たちは長靴なので、こうしたゴツゴツとした
足場でも、なんとか歩けました。
米軍の艦砲射撃で崩れた岩壁。
海はやっぱり澄んでいて。きれいな熱帯魚もいました。
まんなかに、あきやん師匠の後姿が見えますが、
海岸線の岩場の大きさがわかると思います。
とにかく、この足場は、きついです。
こんなところを、当時の人は裸足で逃げていたそうです。
しかも、昼間は米軍の攻撃にあうので、夜間、まっくらな中。
足は血まみれになったと思います。
肉体的にも、精神的にも、極限まで追い詰められた人びとが、
この海岸線に身を隠したり、逃げ惑ったり、自決したり・・・。
ここで起こった悲劇。惨状。
じっさいに歩いてみて、足の感覚でもそれを感じることができました。
海は、ほんとうにきれいなんです。
でも当時は、米軍の艦船で埋まっていたのでしょうね。
恐怖しかないですね。
「降伏」は許されないという、まったく非情理な戦争。
住民を巻き込み、それどころか盾につかい、
邪魔なときには殺しさえした日本軍と沖縄戦。
沖縄戦の悲劇は、けっして忘れてはならないし、
この悲劇の地沖縄が、
いまだに「軍事優先」の地になっていることに、
深い憤りを感じます。
この沖縄戦のこと、
沖縄の米軍基地のこと、
そして自然と文化の魅力あふれる沖縄。
私は、これからも沖縄から学び、それを
多くの人に伝えていきたいと思います。
【1月15日(火)】
この日は最終日で、
おきやん師匠とは別行動。
谷口さんとふたりで首里城公園に。
ここはもちろん、沖縄戦の激戦区であったところですし、
日本軍の沖縄戦の司令部が置かれたところでもありました。
陣地壕跡が公園内にあるのですが、
とうぜん柵があって、なかには入れず。
いちおう、これで今回の沖縄戦の学びの行程、
すべてご紹介できました。
あきやん師匠の案内と解説がなかったら、
こんな学びの旅は、けっしてできなかったと思います。
師匠、沖縄は通算60回目だったそうです。
沖縄関連の蔵書(沖縄戦を中心に)は800冊!
とにかく、その博識に、ただただビックリするばかりでした。
ありがとうございました。
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