ソワニエ読書日記6冊目。
老いを一般的に語ることは、なかなか難しいなと。
それを学びました。
生き方の延長・反映として、老い方もあるのですね。
いつもどおり、
授業レジュメに書いているものをそのまま貼りつけ。
『老いるということ』(黒井千次、講談社現代新書、2006年)
【読んでのつぶやきメモ】
1章 老いの長さ・老いる場所
2章 古代ローマの老いーキケロー『老年について』をめぐって
3章 20世紀イギリスの老いーE・Mフォスター「老年について」の発想
4章 老いの伝承ー深沢七郎「楢山節考」の伝えるもの
5章 老いと時間ー「ドライビング・ミス・デイジー」の場合
6章 老いの年齢ーマルコム・カウリー『八十路から眺めれば』の示唆
7章 老いの形ー幸田文の随筆から
8章 老いの現在・老いの過去ー映画「八月の鯨」の表現するもの
9章 老いと病ー耕治人の晩年の三作より
10章 老いの完了形と老いの進行形
ー芥川龍之介「老年」、太宰治『晩年』の視点
11章 老いる意志ー島崎藤村の短文から
12章 老いと性ー伊藤整『変容』の問題提起
13章 老いの温もりー萩原朔太郎のエッセイと伊藤信吉の老年詩集から
14章 老いのまとめ
*先人たちの「老い」をめぐる考察から、考える材料を得ることのできる1冊
*「年を取る」「年を重ねる」の違い
*老いることの難しい時代
*少なくとも、政治や制度のなかで、老人が大切にされているとは
思えない現状
*年齢の積み重ねの「足し算」と「引き算」
*1年1年の味わい方にも差が出る。四季の移り変わりとかも。
*「危うい5年」(75歳~79歳のこと)を越えたときにみえる「80」の意味
*老いるのは決して容易ではない。老いる年齢まで生きなければ
ならないのだから。
*老いには悲惨な側面がつきまとうことに目をつぶってはならない。
*「どうかして、ほんとうに年をとりたいものだと思う。十人の
九人までは、年をとらないで萎(しお)れてしまう。その中の
一人だけが僅(わず)かに真の老年に達し得るかと思う」
(島崎藤村『飯倉だより』のなかの「老年」という短文より)
*「学ぶとは、徒(いたずら)に知識を詰め込むことではなく、
その中に自分にとっての実践の課題を見出すことではない
でしょうか」(216P)
*「老いの主題に一つの明確な結論を求めるわけにはいきま
すまい。老いは多面的であり、謎を秘め、容易には正体を掴
み難いからです」(217P)
*「老いを主題にした対話篇・エッセイ・評論・随筆・小説・詩・
戯曲・映画などに触れて最も強く感じるのは、老年とは他と
切り離され、そこだけ孤立した時間ではない、という点です。
老年のみを取り出して検討してもあまり生きた論議にならな
い。(略)そこには常に過去の自分との深いつながりが見出
せます。(略)つまり、老いとはある日突然に訪れるものでは
なく、そこまで生きて来た結果として人の前に徐々に姿を現
すのです。(略)老いは老年の課題であるというよりむしろ若
い日の宿題である、という事実を示します。ただ宿題の提出
期限があまりに先なので若い頃はまだ本気でそれに取り組
む気になれなかったり、つい忘れてしまったりする」
「もう一方には、老いがそれだけ深く過去とつながっているの
なら、老いの一般論なるものは容易に成り立たないことを教
えられます。老いとはこういうものであり、老いることにはこん
な意味がある、と論じてみたところで、各人のそこまで生きて
来た時間はあまりに多様であり、道程も多岐にわたる故に、
老い続ける誰にとってもその先の糧となるような考え方を提
起するのはほとんど不可能であると思われます。むしろ、老
いへの一般論などというものはないと断念するところから、自
分自身の固有の老いへの独自の模索が始まるのではないか」
(217~218P)
*「老いるということは、どこかに到達することではなく、延々と
老い続けることであり、老い続けるとは生き続けることに他な
りません」(226P)
次回は、「認知症と長寿社会」という本を読んできたいと思います。
最近のコメント