『前衛』1月号の、
「『居場所』-連帯、成長、行動への確かな力」の
特集は、とても勉強になった
それぞれのリポート記事もよかったし、
中西新太郎さんの「若者の生活や経済的な困難と『声に出せない』苦しさ」
と、
佐貫浩さんの「傷つきの場としての学校を組み替える」
は、
学習運動のあり方と重ね合わせながら、読んだ。
(とくに佐貫論文はオススメです)
いま、「居場所」についての探究と実践が、
ひとつの流れとなっているように思う。
中西さんは、
「近代的な社会組織は、特定の目標を達成するために
必要な機能を果たすだけでなく、生きていく『居場所』
としての役割を持たざるをえないこともある。そこでの
活動を通じて、そこに『居やすい』という機能を、労働
組合などはとくによく考える必要がある」(144P)
と指摘されている。
私は、「居場所」の大切さを一般的に強調するだけでなくて、
「それはどんな居場所なのか」ということが、より大事になってくると思う。
青年運動には、青年運動らしい「居場所」の
特徴があると思うし、労働組合には、
労働組合らしい「居場所」のあり方が問われてくる。
学習運動もしかり。
学習運動の目標・目的を達成すると同時に、
「居やすい」関係性・空間をどうつくるか。
そこに、「学習運動らしさ」をどう創造していくか。
そんな問題意識をもっている。
先日、78期の岡山労働学校「核ZERO」教室の
修了式で、ある若い受講生が、
「労働学校は家族のようなもの。疲れていても、
来れば元気になる。ホッとできる場所」と、
涙を流しながら語ってくれたことがあった。
彼女は、どんなに忙しくても、やるべきことが
あっても、労働学校に毎週必ず来ていた。
彼女にとって、間違いなく労働学校は、
大きな比重をしめる「居場所」だったのだと思う。
「学習運動らしい居場所」ってなんだろうか。
それはやはり、“学ぶこと”を柱にした存在空間と
人間関係の形成ということだと思う。
そして、佐貫浩さんが論文で指摘されているように、
その“学びの中身”が問われている。
「学習運動」の「居場所」が、学習運動らしい
居場所となるうえで、その“学びの中身”こそが、
その空間のあり方を規定する土台として作用するのだろうと思う。
その土台があって、はじめて「居やすい場」としての
様々な工夫や実践が生きてくる。
これは、労働学校だけでなく、
さまざまな形態の集団学習にも、
応用させるべき問題意識だと思う。
学習運動らしい居場所。
これからだんだんと深めていきたいテーマである
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