さて、『青年学生論』最後の記事です。
もちろんですね、
レーニンの当時の言説を現代に
そのままあてはめることは
できないのは当然でありまして、
この本でも、はっきり言って
「使えない」ところばっかりです。
でも、レーニンが語ろうとしているその真髄、
その姿勢については、こんにちにも受けつぐべき
宝があるの思うのです。
私がレーニンのこの本のなかでもっとも
影響を受けたフレーズがあります。
たぶん十数年前に読んだときから今まで、
私の「学びの姿勢」をいつも支えてくれた言葉です。
「人類がつくりだしたすべての豊富な知識で
自分の学識をゆたかにするときにはじめて、
共産主義者となれるのである」
(「青年同盟の任務」)
もう、これに出会うだけで、
この本を読む価値はある、と私は思います。
そうかー、そういうものかーと。
この言葉に最初に出会ったときは、
「これは、たいへんな努力が求められるんだな」という
思いとともに、
この学びは一生続けないといけないんだな、と腹がすわりました。
だって、人類が生み出す知識は、日々、
ますます豊かになっているのですから。
レーニンは、青年たちに、こう語ります。
「ちょっとみると、共産主義を学ぶということは、
共産主義の教科書、小冊子、著作に述べてある
知識の総和を習いおぼえることである、という
考えがうかんでくるのは当然である。しかし、
共産主義の学習をこういうふうに規定するのは、
ぞんざいすぎ、不十分すぎる。共産主義の研究
ということが、共産主義の著作や本や小冊子に
述べてあることを習いおぼえることにすぎないと
すれば、容易すぎるほど容易に共産主義的な
経文読みや自慢屋ができるおそれがあり、それ
はわれわれにたえず害悪と損失をもたらすだろう。
なぜなら、そういう人たちは、共産主義の本や
小冊子に述べてあることを習いおぼえ、読み
あさりはしても、その知識全体を統一する能力が
なく、共産主義が真に要求するようなやり方で
行動することができないだろうからである」
「もし諸君が、人間の知識のたくわえたものを
学びとらないでも共産主義者になれるという
結論を引き出そうとするなら、たいへんなまち
がいであろう。共産主義そのものが知識の総和
の結果であるのに、この知識の総和を学びとら
なくとも、共産主義のスローガン、共産主義科学
の結論を習いおぼえるだけで十分だと考える
なら、誤りである。共産主義が人間知識の総和
のなかから現われたことを示す見本は、マルクス
主義である。
諸君は、共産主義理論、共産主義科学が主と
してマルクスによってつくりだされたこと、この
マルクス主義の学説は、19世紀のただひとりの
-たとえ天才であるにせよ-社会主義者の所産
ではなくなったこと、この学説が全世界の幾百千万
のプロレタリアの学説となり、彼らはこの学説を
資本主義に反対する自分たちの闘争に応用して
いることを、読んだり聞いたりしたであろう。そして、
マルクスの学説が最も革命的な階級の幾百千
万人の心をつかむことができたのはなぜか、
という質問を諸君がだすなら、諸君の受けとる
答えはただ1つ、次のものであろう。そうなった
のは、マルクスが、資本主義のもとで獲得された
人間知識のしっかりとした土台に立脚していた
からである、と」
レーニンは、マルクス主義者の「学びの姿勢」を
自ら実践した人でした。
それが、『帝国主義論』や『唯物論と経験批判論』などを
生み出していく力になります。
不破哲三さんは、『レーニンと「資本論」』(新日本出版社)の
第4巻「戦争と帝国主義」のなかでレーニンの学びの徹底ぶりに
ついてふれ、こういう角度から指摘をしています。
「どんな立場の学者でも、具体的な研究では、世界と
対面し、自然と対面するわけだから、その理論には、
客観世界の諸事実が反映する、つまり、世界と自然に
たいする人間の認識の深まりが、いろいろな歪みを
ともないながらも反映するんです。だから、ブルジョア的
な学者の研究であっても、その具体的な成果は徹底的
に研究して吸収してゆかないと、われわれの理論は
前進しない―これは、レーニンが『唯物論と経験批判論』
のなかで強調した立場です。その立場を、自分自身
みごとな形でしめしたのが、レーニンの帝国主義研究
だったと思います」
また、ずいぶん古い本ですが、
『青年と語る―科学的社会主義と日本の未来』(新日本出版社、1975年)で、
不破さんは、レーニンと同じように、青年にこう語りかけています。
「マルクスやエンゲルスやレーニンが、われわれが
生きているこの時代の問題も全部解き明かして
くれていて、なにか問題にぶつかるたびに、さあ
マルクスのどこに書いてあったか、それをさがした
ら答がでてくるというのだったら、われわれはたい
へんなまけ者ですむことになります。ところが科学
的社会主義というのはそんなぐあいのいいもの
ではない。事実から出発する、運動から出発する、
これがわれわれの立場です。人間の社会が発展
して人間生活そのものが前にすすめば、マルクス
やエンゲルスやレーニンがぶつからなかった新しい
問題、たくさんの問題がわれわれの前に生まれて
います。同じ時代にくらしていても、国がちがい、
民族がちがえばまたそれによって異なるさまざまな
問題が生まれてきます。だから、われわれが生活に
立ちおくれない、そういう社会主義者であろうと思っ
たら、マルクスやエンゲルスやレーニンを棒暗記
するだけで、自分の生活している社会がどうなって
いるかに目をむけないようなことでは、まさに落第も
落第、科学的社会主義の学校を永久に卒業でき
ないことになるでしょう。これは科学的社会主義の
立場とはまったく縁のない考え方であります」
「ほんとうに科学的社会主義を正しくつかむうえか
らもマルクス、レーニンや“身内”の文献ばかり読む
んじゃなくて、マルクス主義以外の立場のものも、
政治や経済、歴史理論、文学、芸術などあらゆる
分野で生まれているすぐれたものをどんどん吸収
することが必要」
「大きな抱負をもって、広い勉強をする」
いやはや、科学的社会主義の学びって、
こんなにたいへんなんですよ。終着駅がありません。
でもだからこそ、ワクワクしませんか。おもしろさもそこにある。
レーニンの『青年学生論』は、
科学的社会主義の学び魅力を、熱い言葉にのせて、
私たちに届けてくれる文献だと思います。
いわれるとおりで、広く学ぶことで、
いろんなものが繋がってくるから面白い。
たいへんだけど、「あ!つながってる!」という発見は、
学びを味わう醍醐味のひとつではないかと思います。
投稿情報: 長久 | 2011年2 月 8日 (火) 14:20
パッと見て関係がなさそうな事柄のそれぞれが、自分自身の中で一本に繋がる、そんな経験を繰り返している最中だと思っています。
先人達の残した功績を乗り越えていかないと物事は発展しないワケで、しかしそれは学びが多岐にわたるという点で、途方もないことだと感じています。
しかし、逆を言うと興味の対象そのものが学びに繋がるという、ある意味自由度が高くなるという捉え方もできるんでしょうね。
だからこそ私もワクワクしながら、色~んなコトを学びにしながら、細かい共通点に法則を見出しながら生きていきたいです♪
投稿情報: 専従中リハ職 | 2011年2 月 8日 (火) 09:23